ルカの福音書は祈りの福音書と呼ばれるほどに、イエスの祈りの教えと実践について記している(3:21、5:16、6:12、9:18,29、22:32、22:44、23:34,46)。マタイ6:6-13の祈りの教えとよく似ているようであるが、イエスは幾度となくこの教えも繰り返されたのだろう。そして実際それは、「祈るときには、こう言いなさい」と一つの模範的な祈祷文として教えられ祈られたと考えられる。で、何を祈るか。一つは、神に対して相応しい崇敬の念を示すことである。そしてイエスに始まった神の支配の完成を祈ることである。そしてもう一つは、神に信頼して日々生きるその姿勢を明確にしながら、物心両面の必要を祈ることである。しかもそれは「私たち」という連帯意識の中で公共の必要として祈られなくてはならない。
イエスは、祈りの重要性を強調されたが(11:5-10、18:1-8、18:9-14)、ここでは祈り続けることと、祈りが確かに応えられることを示すために、真夜中の友人のたとえ、子によいものを拒まない父のたとえが記録される。確かに、父親としてやはり、わが子にはよいものを与えたいものだろう。子どもががっかりするようなことはしたくないし、子どもが苦しんでいるのを見ていて、黙って見過ごすこともできない。そんな父親の心と神の心は同じであるという。祈りは、神と信者の関係ではなくして、父と子の関係ですべきものである。となれば、祈る事柄において私たちはその結果を大いに期待することができる。
ただ、ルカはイエスのことばをこう記録する「とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」と。イエスは弟子たちに、物を得るためではなく聖霊を得るための祈りを教えた。それは聖霊が私たちの生活を導くからである。私たちは、必要が満たされることが幸せであると考える。だからあれやこれや思いついたモノを神に願い求めるようなことをする。しかし、私たちを本当に幸せにするのは、私たちの考えを正し、私たちの思いを導き、私たちに求めるべきものを悟らせてくださる聖霊の業である。聖霊をこそ求めなくてはならない。聖霊の臨在にこそ、私たちは与らなくてはならない。
次にイエスと悪霊との関係について。イエスは様々な不思議を行った。その力の源は何か?ある者は、イエスを悪霊の頭であるとした。しかしイエスは言う。もし自分が悪霊の頭であるなら、悪霊を追い出しは同士討ちであり内輪もめであると。つまりイエスの力の起源は神であり、神の国の支配がやってきたことに他ならない。そして、イエスの業は一時的なものではない。それは単に一時的に心を入れ替える、良心的な生活を心掛ける以上のものである。根本的に、私たちの心の態度を変えてしまうものである。イエスに出会う最大のすばらしさは、質的な変化が私たちの生活に起こることである。私たちは闇の支配から、光の支配に入れられるからだ。御国の支配は、悪を打ち破るのである。
それがわかった人は、神のことばを聞いて、それを守ろうとする。イエスを神としてはっきり認められるからだ。悪霊の頭などではなくて、私たちのまことの救い主でイエスを認められるからだ。イエス自らこう語られる。「ここにソロモンよりまさった者がいる」(31節)、「ここにヨナよりもまさった者がいる」(32節)。イエスの言おうとしていることは、ご自身がまことの神であり、万物の支配者であるということだ。そのイエスを私たちの生活にお迎えすることほど重要なことはない。
だから本当に、光であるイエスをお迎えするなら、私たちの生活は体裁を繕ったもの以上になる。パリサイ人的な生活以上のものになる。パリサイ人たちの生活は表向き非の打ち所のないものであった。しかしその心の内は、「強奪と邪悪さでいっぱい」(39節)であった。それは、律法学者たちにとっては「侮辱」(45節)的な言い方ではあったが、事実であった。イエスは、神がその生き方の責任を問うという。人の生はその見えるところによらず、見えない部分がどうであるかが大切である。事の本質を突かれた律法学者やパリサイ人たちは、イエスを益々敵視していくようになる。しかし、イエスのことばに偽りはない。時代に流されない神のことばを語るイエスに耳を傾けたいところではないか。