ルカの福音書12章

この時、イエスの所には、たくさんの人たちが次から次へと集まって来ていたが、イエスは、まず弟子たちに教えを語ろうとしていた。弟子たちには、将来の困難に向かって備えられる必要が差し迫っていたということもあるのだろう。イエスには十字架の危機が差し迫っており、律法学者、パリサイ人との緊張感が高まっていた。そういう中で、イエスは、自分の最も近くに仕える弟子たちに心構えを語るのである。

「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません」(2節)人の悪意や敵意は隠しきれないものだ。どんなにカモフラージュしようとも、それは自然にことばや振る舞いに出てしまうものだろう。そういう意味で、律法学者やパリサイ人の敵対は、ますます明らかになり、イエスの立ち場は益々厳しいものとなりはじめていた。そういう中でイエスは言う。「しかし、目に見えない本当の主権者である神を覚えて歩むなら、たとい迫害の試練にさらされることがあっても恐れることはない」「神はあなたがたを忘れてはおられない」「神が私たちの味方であるなら、たとい目に見えて自分はひとりぼっちであると思わされるような状況に置かれようとも、何も恐れるものはない」と。

9節、「人々の前でわたしを知らないと言う者」は、神との関係を否定する者であり、結局、神を認めようとしない、信じようとしない者のことだ。イエスの十字架が自分には必要なのだと認めようとしない人のことである。そういう人に対して、神ご自身も「知らない」と言う。信仰を持つことは、関係を持つことに他ならないのだから、それは当然の結果だろう。10節、神の前に赦されざる罪がある。聖霊は、人に罪を悟らせ、悔い改めに導き、神の恵みと赦しを仰がせる。神の赦しを拒むのだから、当然赦されることはない。

11、12節は、明らかに律法学者、パリサイ人を想定している。大切なのは、これが私たちにどんな意味を持っているかだ。私たちも、正義のために戦わなければならないことがある。そういう時には誰も味方はしてくれない。腹心の友と思っていた人でもそ知らぬふり、あるいは反旗を翻すことがある。まさにイエスは、その苦しみを通られた。けれども、イエスご自身、目に見えない神の支配を覚え、神との関りの中で、いわゆる信仰によってその試練を通り抜けられたのである。それが私たちへの励ましであり、教訓である。

さて、イエスの所に、相続争いへの介入を依頼する者がいた。イエスは、それを拒否される。そして愚かな金持ちの話をし、どんな「貪欲」にも警戒せよと教えた。イエスの使命は調停ではなく、救いであり、人が物質的にどんなに満たされても、そこに完全な幸福はないことを悟らせることにある。だから、逆にイエスは、資産のない者に対して、思い煩うなと警告する。つまりお金のあるなしに関らず、人はたましいに安らぎを得ているかどうかが勝負なのである。人は霊的な存在であって、内なるものが満たされない限り、幸せに浸ることはない。

ユリの花は、パレスチナの丘に咲く、深紅のアネモネのことだという。夏、夕立がひとしきり降ったあとに、丘の斜面がこの花で深紅に染まる。だがそれは一日咲いただけで枯れていく。パレスチナでは木が少なかったので、このように枯れた野花や干し草が炉の火に用いられたのである。しかしその一瞬のいのちに、これだけの美を与えてくださる神が、どうして遥かに長い人生を生きる人に配慮してくださらないことがあるだろうか。だからこの世においては、神が与えてくださるものでよしとする人生を生きていくのがよい。

しかし、多くの信仰者は、そのような生き方をしていないことがある。人間は、悲しいことに「自分のいのちを少しでも延ばすことのできない」存在でありながら、これを下さる神よりも、自己努力に熱心なことが多いものだ。目には見えないが、確かにおられる神が喜んですべてを備えて与えてくださるという信仰に立てないからである。

もっと大きな世界観で人生を生きるように努めたいものだ。つまり人は、目に見える現実の世界の中で、賞味期限が切れるように、朽ち果てていくような生き物ではない。人は霊的な存在であり、やがて神のもとに帰る日を迎えるのであるし、その人生について報告をしなくてはいけない時が来る。人がなぜ能力を持ち、財を持ち、人間関係を持つのか、私たちは理解しなくてはならない。イエスは言う。「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのか」いのちの目的を知ることが大切なのだ。そして一日の余った時間を自己満足の目的に消費するのでも、無目的に費やすのでもなく、神を認め、神との関係を喜び味わい、神との関係に生きる者らしく神の栄光を現す歩みをする時へと導かれていきたいものである。

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