ルカの福音書17章

1節、「イエスは弟子たちにこう言われた」という。先を振り返って読めば、15章でパリサイ人、律法学者に対して、放蕩息子の話をしていることがわかる。その後16章は「弟子たちにも」、とあり、この17章もその延長で、「弟子たち」に語られたことに注意する必要がある。つまり、イエスが語っている対象は「弟子たち」であり、念頭にあるのは、律法学者たちのことである。

つまり、人を救いに導く弟子たちもまた、律法学者たちと同様に、誤って富を使う危険ばかりか、誤った道に、小さな兄弟たち(文字通りの子どもだけではなく、イエスに従い始めた幼い信仰者たち)を導く危険もあった。そういう者は、「石臼をくびにゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがまし」である。手厳しいが、そのとおりである。だが、イエスの意図は、あなたがたはそうであってはいけない。あなたがたは、罪に対しては戒めを与えなさい、そして悔い改めには常に、無制限に赦しを与えなさい、というわけだ。主の弟子は、律法学者とは違うのである。

それに対する弟子たちの応答が5節、さすがである。イエスの教えを受けて、そのように、罪に対しては適切な戒めを、悔い改めには無制限の愛を持って、人を育てよ、と言われれば、結局、自分たちには偉大な信仰が必要であると気づいたのであろう。彼らは「私たちの信仰を増してください」と謙虚にイエスに願い求めた。もっと信仰がなければ、こんな人を育て導く働きなどできない、と。しかし、イエスは言う。大切なのは「偉大な信仰」ではなく「偉大な神に対する信仰」である。働くのは神であり、神ご自身の偉大な力を、私たちは受けるに過ぎない。つまり信仰というのは、神との関係に生きることに他ならない。それは、神あっての自分であることを認めることであり、日本的な言い方をすれば、神を立てて生きることである。となれば、いつでも謙虚に、自分が役に立たないしもべであることも自覚できるだろう。自分が何者であるかのように考え、神がしてくださったことを自分がしたかのように考える誘惑に、注意したいものだ。「私たちはなすべきことをしただけです」と自然に言える者でありたい。

そこで、さらにルカは、弟子の心得を諭す、イエスのエピソードを取り上げる。私たちは謙虚であると同時に、感謝すべきである、と自然な話の流れがある。十人のツァラアトに冒された人がイエスによって癒された。しかし、その中から、いやされたことがわかって、神をほめたたえながら引き返してきて、ひれ伏して感謝した者はたった一人であったという。しかも選ばれた民でもない外国人のサマリヤ人である。なんとも異邦人と見下されている者の方が礼儀があり、人間味がある。それに比べて選ばれた民であるユダヤ人は、というところだろう。しかし、多くのキリスト者もこれと同じなのかもしれない。自分に起こった幸せに夢中になって、神がそのようにしてくださったのだ、ということに考えが及ばないで生きている。神を認め、神にあって生きている自覚の乏しさ、神にお仕えする者に過ぎないという謙虚さが足りないのである。

20節からは、再び、パリサイ人へ向けて語られている。弟子たちに対する個別指導は終わりである。主題が「神の国」に変わり、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」とイエスは言った。神の国は、彼岸のことあの世のことではない。もうすでに、今ここに来ている、と言う。つまり、神の国というのは、領域の問題ではなく、支配の問題である。だから、イエスが現れたということは、既に神の支配が開始された、ということであるがその支配はまだ完成していない。すでに神は、ご自身の業を始められている。もうすでに神の国の前味は味わうことができる。しかしそれが完成されるためには、まず、25節、イエスが十字架の苦難を通らなくてはならない。そして、「人の子の日」、つまり終末の時が起こらなくてはいけない。それがいつであるかは誰にもわからない。それは予告なしに与えられる、という。だが、まことに神を信じる者は、その日を恐れる必要はない。いつも謙虚と感謝をもって主に仕える弟子たちを、迎え、労をねぎらう主が来られる日だからである。17章は、雑多なイエスの小話がまとめられているようでありながら、全ての小話は繋がっている。主の弟子であるということは、やはり主の日の完成という終末的な意識がないかぎり、ありえないことである。主の日を意識し、信仰と感謝の日々を進ませていただくこととしよう。

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