ルカの福音書18章

当時、女性は一人で裁判所へ行くことはできなかったが、この女性は自ら裁判所に足を運んでいる。つまり彼女を取り成す男性の友人もいなかったのだろう。彼女に出来ることは、自分の方が明らかに正しという事実と自分自身の粘り強さを武器とすることだった。彼女は、幕屋の外を歩き回り、不正な裁判官に向かって声の限り叫び続けた。当時の手続きからすれば、全くの門前払いの行動である。しかし、奇跡が起こった。彼女のなりふり構わぬ執拗な訴えに、裁判官が根負けしたのである。裁判官は彼女を追い払いたいだけのために、彼女の望みどおりに裁判を始めた。イエスは、その例を取り上げて、まして神の子が、仲介者であるイエスの御名によって昼夜呼び続けるなら、そこに愛情深い父なる神からの祝福がない、ことはあるだろうか、と指摘される。私たちは神に大いに期待すべきである。すべてが神にかかっている、との確信のもとに祈り続けることである。しかし、実際にはそうではない場合が多いのである。
たとえばパリサイ人と取税人の祈りのたとえを見てみよう(9-14節)。取税人は、明らかに自分が罪人であることを自覚せざるを得なかった。罪人はあの人でもこの人でもなく、まさに自分自身であった。だから彼は、人間が神に求めるべきもの、つまりあわれみを、間違うことなく求めることができた。そして彼はそれを「自分の胸をたたいて」先の女性のように執拗に求めて、その祈ったとおりの赦しを得た。スロ・フェニキヤ生まれの異邦人の女が、子どもたちのパンくずをいただくことに甘んじたように(マルコ7:26)、主の恵みは低き所へ流れるのである。他方、パリサイ人はそうではなかった。彼は神に呼びかけ、自分を誇るだけで、神に訴える必要を持たなかった。彼のような者に、祈りは不要である。
続く、子どものたとえも、祈りの姿勢を教える。子どもの一番の特色は、親子の関係を疑わず、親から受け取ることが当たり前であると考えていることだ。祈りには、そのような揺るがぬ信頼の態度が必要だ。しかし、私たちにあるのは、18節、ある役人に代表される「何をしたら」という取引的な態度である。これは先のパリサイ人の姿勢にも通じる。必要なものを得るには、それなりの働きが必要だ、という考えが、私たちの心の核心にある。だから神様の祝福を受けるにしても「何をしたら」よいのか、と考える。しかしイエスは、自分で何かをしようとせず、また自分の義によらず、ただ心配し、整えてくださる神に信頼すること、不足を訴えることが大事だというのである。
なお、この役人の問題は、十戒を表面的に守ることであった。人間の心は肉体の鎧に隠されてよくわからない。しかし、神は霊であり、心を見られるお方である。十戒は神による心の戒めであり、目に見えない神の前にどう生きるかを問うものである。ばれなければよい、という問題ではない。だからイエスは、十戒のすべてを守っていると豪語するこの役人に、第十の戒め、貪りの罪はどうなのかと問いかけられた。貪りは、心の中の罪であり、それを制御することは難しい。貪りを止めるためには、心に奇跡が起こる以外にない。それはまさに、神だけがなさることであり、人の救いは、神に期待せずしてありえないことである。神に全く信頼する信頼なくして起こりえないことである。
28節のペテロの訴えは、パリサイ人と紙一重である。全くもって主に従ってきた、と自分の行いを主張する。もちろん、そのことばに偽りはなかったので、イエスもペテロのことばを受け入れて、主にすべてを捨てて従ってきた者には祝福があることを確約される。その祝福は、彼岸の祝福のみならず、この世にあっても何倍の祝福となって返ってくる、と約束されていることに注意したい。だが、主に従う道は、しばしばいばらの道であり、十字架の道である。役人が求められたのも、永遠のいのちの栄光に与る前に、十字架の道を通ることであった。
最後に、ルカは盲人の事例をあげる。まさに祈りの教えの章を閉じるに相応しい事例である。つまり祈りのたとえにつなげて読めばよくわかる。彼こそ人の子た来た時に、その好機を逃そうとしなかった信仰者である。彼は阻止されればされるほどに、叫び立てたのである。そしてイエスはこの人の訴えを無視せず、何をして欲しいのかを訪ねた。実に、粘り強く祈り、訴え、主の機会を捉える者であろう。

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