ルカの福音書19章

ザアカイの物語は、ルカだけが記録し、18章の文脈に二重の意味で続いているところがある。一つは、18章で、「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」ことが教えられたが、物乞いをしていた目の見えない人の事例に、もう一つ事例を加える内容となっている。また、ザアカイは取税人のかしらで金持ちであった。つまり、18章で、「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(18:24)と語ったことにつながり、それは、全く不可能ではない、「人にはできないことが、神にはできるのです」(18:27)と言われることの具体例として加えられている。

神は、どんな祈りも願いも、思いも見過ごされることはないし、神は心寂しい金持ちにも憐れみを注ぎ、不可能と思われることをしてくださる、というわけだ。実際、ザアカイは変えられた。彼は、自分の財産を塵芥のように見なしていく(8節)。律法では、騙し取ったものは2倍にして返すことが定められている(出エジプト22:7-15)が、ザアカイは4倍にして返した。お金があれば幸せになれる、と人間は思うものだが、実際には、お金がなくても十分に幸せでいられるのが人間である。そしてむしろ、お金にしろ、すべてのことを備えてくださる神様の存在に気づくこと自体がもっと大切なのだ。そこに気づけば、必要なものは全て備えられるし、そうでないものに殊更執着することもないだろう。実に、ザアカイはその真理を見出すことのできた人であった。しかしそれはザアカイの努力ではなく、神ご自身の哀れみであった。神は、ザアカイの心の求めを見過ごしにはされなかったのです。神は、「失われた者を捜して救う」お方なのであり、ご自分の独り子イエスをそのような目的で遣わされたのである。先の若い青年にとって、自分の財産を手放すことは考えられなかったが、ザアカイはもはやそうではなかった。神こそが私たちの真の宝である、とわかれば、神以外のものに対する執着は捨てられ、パウロのように必要最小限のもので足ることを学ぶのである(ピリピ4:12)。

そこでルカは、11節以降は、自分に与えられているものを正しく管理すべきことを語っていく。求めるならば神は応えて与えられるだろう。与えられたならば、正しく用いることなのだ。まず当時の読者は、このイエスの説話に、一つの歴史的な出来事を思い出した。それは、ヘロデ大王がBC4世紀に死んだ時のこと、彼は息子のアケラオスにユダヤを遺している。アケラオスは、相続の承認を求めてローマへ行かなくてはならなかった。しかし、ユダヤ人はアケラオスが支配者となることを望まず、カエサルにこのことを上申するために15人の使者を派遣したのである。結局カエサルは、アケラオスに「王」という称号なしに、相続を認めることにした。またエリコには、アケラオスが、実際に壮大な宮殿を建て、灌漑水路も造っていたので、イエスのこのたとえ話は、当時の人々には、実に身近な話題を踏まえたものとなっていた。

そこでこのたとえ話に入るが、3人のしもべは、同じ額の1ミナを預けられている。1ミナは、ローマの貨幣で100デナリ、当時の100日分の労賃に相当する。王は、三人のしもべにそれで商売せよと命じた。しかし10人のしもべの内、これに応えたのはたったの2人である。後は、正直ではあったものの反抗的に用いようとしなかった者が1人、そして主人のものをくすねて雲隠れしてしまった者が7人である。私たちは、すべて与えられた恵みの中で生きている。そこが認められないと、恵みを備えてくださった神にお返ししようという人生にはならない。それはまさに、二人だけが報告可能な人生を生きた理由である。

ともあれこのたとえは、イエスが十字架につけられる時に、この者には王にはなってほしくないと叫んだ出来事の予型である。だからこのたとえによれば、イエスは後で王位を受けて帰って来られるのだ。その時に、私たちが、どんな働きの報告をするかが問われるのである。神が与えてくださるものを私たちが十分用いるなら、それは、豊かに実を結ぶことになる。しかし用いなければ、つまり与えられていることすら認識せずにいるならば、与えられている恵みすら失うことになるだろう。

そういう意味で、与えられているものを正しく認識することが大切だ。人が神に与えられるものは、財だけではない。時間も、才能も、関係も、そして機会もすべて与えられているものである。しかし、私たちは普段それを意識していないことが多い。いや、意識することがあっても、神に任されている認識で生きることはなかったりする。結果、愚かな金持ちのように「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」(12:19)。と思った矢先に、いのちの主である神にそれを取り上げられ、用意したものを楽しむこともできない結末を迎えることもあるのだ。パウロは「管理者には、忠実であることが要求されます。(1コリント4:2)」と語ったが、神の前に今いかに生きているかが問われるところだろう。財を用いて実を結ぶのは、通帳残高だけのことではない。それこそ目に見えない幸福感という、通帳には記録しきれない豊かな心の祝福がある。教会がそれを隣人に大いに振りまくことができたら、人々は、自分たちがミナを任されているしもべに過ぎないことを悟ることもできるだろう。富は神に与えられているもの。そこには神のみこころがある。神の心を自らの心として、神の栄光が表されるような生き方をしたいものだ。

28節、イエスのエルサレムへの旅は終わりに近づいていた。イエスはオリーブ山へ来られた。二人の弟子を先に遣わして最後の晩餐の準備をさせている。何度かエルサレムへ行くと、この「オリーブ山の下りにさしかかると」という場面が何かイメージされる気がする。もはや、エルサレムの神殿は目の前である。イエスをミナを預ける王と見なしていた弟子たちには、感極まる時であったことだろう。41節、「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは」とあるが、エルサレムの神殿の丘はまさに目の前である。45節、イエスが宮に入った道は、今日アールアクサモスクのある南側の発掘途中の階段からと思われる。それは、一段毎に、石畳の広さが異なっており、ゆっくり登れるようになっている。そこから続く王の回廊へ並んだ出店をイエスはひっくり返し、商売人たちを追い払ったのだろう。神殿はソロモンが奉献式で祈ったとおりに祈りの家である。まさに神を真実に見上げる事、これが私たちに求められていることである。

 

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