ルカの福音書21章

当時のユダヤ教は、サドカイ派とパリサイ派に分かれていた。イエスは、先の論争からすれば、反サドカイ派のようであるが、実際には20:46に触れられたように、自らをパリサイ派に位置付けたわけでもない。献金箱にレプタ銅貨二枚を投げ入れたやもめの話は、20:45から続き、反パリサイ派的な考え方を示している。

そもそも律法学者は、バビロン捕囚後に生まれた宗教的な指導者層である。BC6世紀の南王国ユダの滅亡によって祖国を離れたユダヤ人は、宗教生活の中心に律法を置かざるを得なくなり、律法を筆写し、注釈し、さらにこれを教える律法学者が宗教的な指導者層として台頭するようになった。バビロン捕囚帰還後も彼らの重要さは変わらず、やがてサドカイ派とパリサイ派が分立し、律法学者はパリサイ派に属するようになった、とされる。

すでにイエスは律法学者の問題点を並べ上げた。彼らは「長い衣をまとって歩き回るのが好き」である。つまり、長い衣というのは、目立つような服装であり、律法学者としての職務を誇示する。また、「広場であいさつされたりすることが好き」。つまり人前で尊敬を払われることを好む。さらには、「会堂の上席や宴会の上座が好き」。出席者の注目を集めるような場所が好きということだろう。さらに「やもめの家をくいつぶす」というのは、やもめに与えられた財産分与の裁定を助けて、多くの見返りを求めた。そして「見栄を飾るために長い祈りをします」人の耳を意識し美辞麗句を並べ立てた祈りをすることだろう。

人を意識した信仰に対して、レプタ銅貨二つを投げ入れているやもめの姿は、ただ神を意識した信仰である。対人的な信仰生活なのか、対神的な信仰生活なのか、ここが大きな分かれ道である。日本人は、神の前における罪意識に弱いとされる。罪を犯しても、人に知られなければそれは罪とは感じられない。ばれる、ばれないが、日本人の罪意識を大きく左右する。つまり、恥の文化なのだ。日本人は罪を恥と置き換えて感じている。しかし、本来の罪意識は、ばれる、ばれないに関係なく、ただ神の前にあって感じられるべきものだろう。人ではなく、神の前に生きる態度が養われなければならないであり、それは、当時のユダヤ人も同じであり、イエスは、そこを大事にすることにおいて反パリサイ的であったのである。

その上で、5節以降の、終末についての説話も意味のあるものとなってくる。結局、神との関係を意識していきるかどうか、やがて私たちは神の元に帰り、神の前に立つのだ、という意識で生きているかどうかが、大事なのである。そして、神との関りで生きる時に、やはり人類の歴史は、終末に向かっている、始まりがあり終わりがある、ということをわかって生きていく必要があるのだ。

「戦争や暴動のことを聞いてもこわがってはいけません」(9節)、「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます」(11節)。私たちのために愛と最善の導きを持つ神を知ることがなければ、こうした言葉は、恐怖を与える脅しにしか聞こえず、慰めと励ましのメッセージにはなりえないものだ。イエスは、「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです」(28節)という。贖いが近づいたというのは、私たちにとっては喜びが近づいたということである。私たちの安息が近づいているのだ。対神的な信仰に日々生きていればこそ、大地震や戦争の前兆に、いよいよ、花婿の到来を待つ花嫁のように、その日をいまかいまかと待ち望むのである。

20-24節の段落は、マタイ、マルコと比べてルカ固有の書き方になっている。おそらく一番単純にイエスのことばそのものを記録したのはマルコだろう(マルコ13:14)。それを、ユダヤ人を念頭にして旧約聖書との関連を意識したマタイは、「預言者ダニエルによって語られたあの~」と付け加えをしている(マタイ24:15)。そしてテオピロを意識して書いたルカは、異邦人に意味をなさないことばを明らかに書き換えている(ルカ21:20)。ルカは、このイエスのことばを明らかにAD70年のティトス率いるローマ軍によるエルサレム破壊に関する預言として受け止めているのである。歴史家ヨセフスによれば、この時おおよそ百万人の人が殺され、10万人の人が捕虜にされたという。

その後の25節からは、もっと後の未来に起こる出来事、主の再臨が語られている。これらのことが起こったら、主の再臨の日は近いという。こうしたしるしは、世の失われた人々には恐怖である。しかし、主に信頼する者にとっては希望である。それによって主の再臨を確信することができるからだ。教会は、2000年もの間、キリストの再臨を待ち望んできた。しかしイエスは未だに再臨されていない。それは人が悔い改めるために、救われるために延ばされているのである。

既に神を認め神の関係に生きるキリスト者にとって期待されていることは、いつでも、神の前にあるように、「人の子の前に立つことができるように」目を覚まして祈り、生きることだろう。それが主の日に対する最善の備えである。

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