ルカの福音書20章

20章の一連の記事をどのように読んだらよいのだろうか。イエスを罠にかけようとする一連の問答がまとめられているが、元はと言えば、イエスの群衆の喝さいを浴びたエルサレム入場、そして宮きよめの事件を踏まえた問答というべきなのだろう。

考えてみれば、イエスは神殿を祈りの家であるとし、両替人、商売人たちを追い出したことは、ユダヤの権力に真っ向から対立したわけである。だから、祭司長や律法学者たちは、何の権威によってこれらのことをしているのかと問いたださざるを得なかった、というわけだが、イエスは、質問をもって応答した。イエスをメシヤと認めたのはバプテスマのヨハネである。そのヨハネの権威は何によるのか?ヨハネを否定するならイエスの権威を否定することになるが、ヨハネを預言者として認めている群衆は黙っていないだろう。一方ヨハネを肯定するなら、イエスをメシヤと認めることになる。彼らは、この切り替えしにぐうの音もでなかった、というわけだ。

そしてイエスは、たとえをもってご自分の権威を明言された。邪悪な農夫たちのたとえである。単純に不条理な物語と受け止めた群衆に、イエスは、そのたとえの真意を捉えるように、とさらに迫って詩篇118:22を引用して語られる。それは、イエスがエルサレム入場の時に叫ばれた詩篇であり、メシヤ詩篇として知られているものだ。つまり、イエスは、直接的な言い方はしないが、何の権威をもって、という空気が流れている中で、ご自分がメシヤであることを暗示的に主張されたのである。旧約聖書において「石」は、神と約束されたメシヤの象徴である。信じない者はこの石に躓く。しかし信じる者にとって、それは礎石となる。イエスはダニエル2:34-35、44-45にも触れて、イエスを非難するならば神の裁きがあるとする。これほどイエスがご自身を明確にメシヤであると主張している箇所もない。しかし、当時の群衆は、誰もその意図を理解できなかったし、また律法学者たちと祭司長たちは意図を感じながら認めようとはしなかった。

次に税金についての質問。しかしここからは、もはや権威云々の問題ではない。とにかくイエスを逮捕するための口実探しの議論に入って行く。ただ、要点は理解しておこう。当時の納税対象者は、14歳から65歳までの男子で、その額は毎年1デナリ、一日分の賃金に相当した。この税金を払えと言えばユダヤ人を敵に回すことになる。税金を払うなと言えば、ローマ人を怒らせ、その場で逮捕されることになる。イエスはそのたくらみを見抜いていた。ただ、イエスの答えは、普遍的、霊的真理を同時に伝えている。政府は、そもそも人が作った制度であるかもしれない、しかしそれは、神が罪人の社会に秩序を生み出すためにお認めになっているものである。私たちは天の民であり、神の子であるが、同時に、この世で生きている限り、神のことばのみならず、この世の法によって治められなくてはならない。イエスの回答は、口実探しに機会を与えるどころか、まさに質問者が言う通り、「真理に基づいて神の道を教えておられる」ことを裏付けた。

もはや彼らは、イエスの考え方の矛盾を指摘し、イエスの顔を潰す以外にその場を切り上げる方法はなかったことを悟ったのだろう、彼らは、地上での結婚と天上の秩序の問題、いわゆるレビラート婚の議論を取り上げた。レビラート婚は、すでに当時は慣習的にも廃れていたと言われるが、律法にその慣習が定められていたものである(申命記25:5以下)。それは、お家存続のために、兄弟が残された妻をめとって、死んだ者のために子どもを設けるべきであるとする。しかしこうした規定があること自体が、地上で複数の夫を持った場合、天国ではいったい誰の妻になるのか、という復活信仰の理想を打ち砕くことになる。ここで、イエスとサドカイ人は相当深い議論を、戦わせていたことになる。つまりサドカイ人は、イエスがご自分をメシヤと主張することに気づいていた。しかも、政治的な解放者としてのメシヤではなく、霊的な救い主としてのメシヤであることを主張していることにすら感づいた、のである。だから、現実主義的なサドカイ人は、そういう死人の復活も霊も、永遠の神の御国もありえないし、まして父なる神が魂の救いのためのメシヤを天から送られることもあり得ないのだ、とイエスのメシヤ性を完全に否定しかかっていたのである。彼らはイエスがたとえで語って来たことを群衆のように理解できないでいたわけではなかった。しかし、否定したのである。

イエスは単純明快に応答した。天国における未来の生活は、現在の生活の延長ではない。そこには死も、結婚も出産もない。人は、天使のように生きていくであろう、と。そして、彼らが正典と認めるモーセの書を使って、復活を主張する。イエスは彼らの土俵で、しっかり答えられたのである。結局サドカイ人にとっては、自分で頭上に吐いたつばが自分に戻ってきたような結果となった。そして、サドカイ人の考え方に同意しえない復活信仰を持つ保守的な立場の律法学者が、イエスの答えに賛同する。しかしイエスは、律法学者の肩を持ったわけでもないし、自分を律法学者と同類にしたわけでもない。それが、45-47節にルカが、律法学者に気を付けるように、というイエスの言動を補足した意味なのだろう。

議論の終結としてイエスは、再度、詩篇を引用しご自身がメシヤであることを明確に宣言される(41節)。信仰を持つというのは、イエスのメシヤ、救い主としての権威を認めることに他ならない。

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