イエスに起こったことは成り行きでも突発的な出来事でもない。神のご計画であった。そして、イエスは私たちのために自ら進んで神の御心に従われた。ニサンの月の第一四日、イスラエルでは正月であるが、太陽暦に直すと三月の中旬から四月の中旬に当たる。この日に過ぎ越しの祭りが行われた。それは、ユダヤ人にとってはエジプトの奴隷状態から神に救い出されたことを記念する大切な祭りである(出エジプト12章)。だから毎年この祭りのために、多くの巡礼者がエルサレムに集まってきた。当時のエルサレムは、八百メートル四方ほどの狭い市街であったと言われるので、約270万人も人が集まるこの日の混雑ぶりは大変なものであっただろう。
またユダヤ人には、メシヤが到来しローマ帝国を打倒する思想もあったので、ローマ帝国にとっては、ユダヤ人の反乱蜂起が心配された時でもあった。実際、この日には、いつもは駐屯していない多くの分遺隊が送り込まれ、暴動が起こる危険性に備えたとされる。普段はティベリアやカイザリアにいるヘロデやピラトがエルサレムに来ていたのもそのためなのかもしれない。こうした状況で、祭司長や律法学者たちは、暴動にならないようにイエスを殺すチャンスを狙っていた。ユダはそんな彼らのもとにやってきた。しかしなぜユダはイエスを裏切ったのだろうか。ユダは盗人であったとされる(ヨハネ12:4-6)。だから強欲であった彼の期待が外れ、愛想をつかしたと考えられる。しかし、銀30枚はそれほど大きなお金ではない。そこでユダは、人間的な小細工に働いて、イエスを危機的状況に追い詰めさえすれば、イエスはその御力を表して、天の軍勢を従えて、ローマ政府打倒に動き出すと思ったとも考えられる。だがこれも推測に過ぎない。ユダの裏切りの心理については、聖書は、ただサタンの惑わしによる、と語っている(3節)。私たちの人生を狂わすサタンがいる。身を慎み、目をさまし、堅く信仰に立って悪魔に立ち向かう必要が私たちにはある(1ペテロ5:8)。
さて過ぎ越しの食事は、十字架を予表していた(19,20節)。イエスは、過ぎ越しにおいてご自分の十字架の死を確証されるばかりかその意味を明らかにした。ペテロは、「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです」(1ペテロ2:24)と語ったが、まさにイエスは十字架において、私たちの罪をその身に負われ、その永遠の契約をこの聖餐式において交わされたのである。だから聖餐式のたびに、私たちは、神の永遠の契約を思い起こし、自分の救いが確かであり、その祝福に与っていることを思い感謝するのである。
実際イエスは、旧約聖書の規定にはないぶどう酒を使い(旧約聖書では過ぎ越しの要素は、苦菜、種無しパン、子羊の肉であり、ぶどう酒は出てこない。)、当時の過ぎ越しの祭の規定(ペサハ・ハガダー)に沿ってこれを行っているが、それによれば、聖別、感謝、贖い、完了の杯と四回、杯を回す習慣があった。そういう意味で、イエスも杯を二回回し、二回目で十字架の意味を解き明かす、キリスト教会的な意味での聖餐式を行っている。そして二回目の終わりに「神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません」(マルコ14:25)と語り三回目は行っていない。しかし実際の所、三回目は十字架の贖い(マタイ3:26-29)、四回目は酸いぶどう酒を飲み完了したと語ったこと(ヨハネ19:30)に相当すると考えるとしたら、まさに、当時の過ぎ越し規定に沿って、十字架の贖いが行為的に示されたとも言えるだろう。
最後の晩餐の最中に、ユダは、イエスを裏切る活動を開始した。だがイエスを裏切ったのはユダのみではない。実のところ、ペテロはイエスを否認し、他の弟子たちも皆散らされて行った。皆が求めたのは、栄光のメシヤと共にあることであり、苦難のメシヤではなかったのである。イエスは、独り連れ去られ、兵士の一団に引き渡され、暴力と侮辱にさらされたのである。司祭カヤパ邸の跡に建てられたという「鶏鳴の聖ペテロ教会(通称鶏鳴教会)」がある。巡礼スポットとして整えられたものの一つであるが、教会の脇にある石段はイエスの時代のものとされ、実際にイエスが歩いた可能性があるとされる。伝承ではイエスは、この邸に連行されて地下の牢獄で一晩を過ごしたという。確かに、これが当時のものではない可能性があるとはしても、孤立させられたイエスの心境はどうであったかと思わされるところである。
神を本当に愛するならば神と心を一つにする思いがなくてはならない。自己流に、自己満足的に神を愛する結果は、ユダの裏切りをはじめ、弟子たちの無様な姿によく現されている。順風満帆の時には、何事もなくとも、いざ、風向きが変わると、自己流、自己満足的な信仰の鍍金が剥がされることになる。神が何を私たちに期待されているのか、神に従いきれない自分を認め、神の正しさを仰ぐ、謙虚な心で真心から神に仕える、そんな一日を送らせていただこう。