聖い身体:出産の規定(12章)
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。12章は、11章からの「きよいものときよくないもの区別」という文脈の流れから読んでいくことができます。今回は、出産について、当時は、これを汚れと考えました。その意味は何かを考える時に、出産も主の恵みと理解することができます。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。
1)男児の出産の場合(12:1-4)
出産に関する規定が記載される。「女が身重になり、男の子を産んだときは、(あるいは女の子を産んだときは、)その女は、・・・汚れる」とされる。この汚れをどのように理解するのか。これは衛生的に、身体的に、また倫理的に汚れる、ということではない。むしろ、女が、これによってアダムとエバが受けた罪の呪いの中にあることを自覚する、ということだろう。神は女に言われた「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」(創世記3:16)
子どもの誕生は喜ばしいことはあるが、女は苦しみの中で、自らが罪ののろいにあることを知り、さらにその子もまた、キリストによって永遠のいのちを受け継ぐことがなければ、罪の中に滅んでいくことを悟らされるのである。妻を真に愛する夫もまた、そのことを同様に悟るのであるから、こうして両親は、自らの救いと、子どもの救いを願って、祭司のところにいけにえを持って来て、取りなしを願うことになる。
妊娠や出産が罪であることはない。神は性を創造し、人に命じて言われた「生めよ、ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」(創世記1:28)。私たちの性は、神の祝福である。しかし、私たちは、それによって、自らが「咎ある者として生まれ」(詩編51:5)、罪ある者として生み出されたことを知らなくてはならないのである。
男の子の出産の場合には、母親の汚れは、家庭生活に関する限り、その子に割礼の儀式をほどこすべき日は八日となる。割礼は、アモン人、モアブ人、アラブ人、エドム人を含む西セム族の人々の間で行われるものであったが、ペリシテ人、カナン人、アッシリヤ人、バビロニヤ人の間では行われていなかった。イスラエル人の場合、この行為によって正式に契約の民に加わるのである。そして公の宗教的義務を果たすにあたって、彼女はそれからなおも、33日の間汚れたものとされる。
2)女児の出産の場合(12:5)
また女の子を出産した場合には、その期間はいずれも倍にされている。それは身体的、または生理的な理由というよりも、社会的、実際的な理由によるものなのだろう。つまり、神は、男性優位となっている社会の中で、母親に、女の子のためにはより丁寧に世話をする時間を与えられた、とする考えや、さらに次の出産に備えて、母胎が十分な回復の時を持つようにされた、という考え、さらに、女の子が生まれた家庭では、夫は、次の子どもが男の子であることを願う時に、いくぶん、心理的なインターバルが必要であった、という考えがある。
3)きよめのささげ物(12:6-8)
出産後のきよめのためのささげものが必要とされる。当時はどんなに貧しい者も、自分たちが神のきよめを受けていることを覚えるために、いけにえを持っていかなくてはならなかった。それによって自分たちが神の呪いの中から救いの中に入れられることを確信したのである。
イエスの両親のマリヤとヨセフも同様にして、あがないのために、「山ばと一つがい、または家ばとのひな二羽」と定められたところに従っていけにえをささげている(ルカ2:22-24)。イエスの両親は貧しかった。しかしその家庭もまた、神の呪いの中にあると同時に、神の救いへと招かれたのである。
まず私たちは、今罪の呪いの中にあることをよく知らなくてはならない。それは子どもも例外ではない。子どもは、無邪気で悪に染まっていないと考えられることがある。だから自然に成長させ、自由な自己表現と自己実現に導くべきであると考えられることもある。しかし、人間は生まれながらの罪人であり、聖書によって導かれなくてはならない者であり、キリストの罪の赦しと救いを必要とする。
もし、そのような人間観を親がしっかり持つならば、親は子どものために熱心に祈る者となるだろう。罪をもって生まれた子どもが、キリストにあって聖霊の助けによって新生するように熱心に祈ることだろう。また、祈りつつ主の訓戒と戒めによってしつけられ育てられるように関わることだろう。イエスの両親もまた、そのような従順の第一歩を踏んだのである。まさに神は、そのような小さな従順さを用いて、ご自身がこの世に現れることを許された。神に大きなことを求めがちであるが、小さな日常性の中に、なすべき正しい務めを忠実に淡々と積み重ね、罪の赦しと救いのめぐみを味わう歩みが大事なのだろう。主にあって、私たちは神ののろいから解かれ、救いの中に置かれている。感謝をもって歩ませていただこう。