レビ記13章

13章 ツァラアトの鑑別診断

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。11章からの「きよいものときよくないもの区別」という文脈の流れに沿って、今回は、ツァラアトの問題が取り上げられます。当時は汚れと考えられたこの病、その本質的な意味は何なのか、それは、今日どういう意味を持つのかを考えながら読みたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ツァラアトという用語について
ツァラアトの診断と処置について。これは、新改訳の第二版までは「らい病」と訳されていたもので、第三版以降のツァラアトはヘブル語を音訳したものである。この疾患の典型的な症状は、三つ、①白い腫物、②患部の毛の白色変化、③患部が皮膚より深く見える、ことにある。伝統的にこれは、新約聖書時代や中世のヨーロッパで大変な苦悩をもたらしたハンセン氏病のことであると解釈されてきたが、現代では否定されている。というのも、それは、47節以降に描かれるように、それが人間に生じる病理的変化のみならず、衣服や壁にも生じる現象であり、当時、ツァラアトはらい病とは訳しきれない幅広い意味を持つことばとして使われていたことは明らかだからである。そのため、新共同訳では、「らい病」という言葉を避け、「重い皮膚病」と訳し、また、英訳聖書のNIVでは「伝染性皮膚病」(infectious skin diseases)と訳されている。
翻訳の難しさは、単純に、別の国のことばには置き換えられない、ことばの意味の幅があることだろう。まして時代差のあるものについては一層複雑で、現代の用語にそう単純には置き換えられない。そういう点から見ても、単純に「ハンセン氏病」とは置き換えられないことにもなるのだが、かといって、「重い皮膚病」も苦しい訳である。「重い」ものは何でも、というイメージがあるし、「伝染性皮膚病」も、47節以降のツァラアトは必ずしも人間に伝染するとは考えられていないようであるから、これも難しい。注目すべきは、「深く見える」と訳されたヘブル語アモクなのだろう。同じ単語が、ヨブ記では「よみよりも深い」(11:8)「闇の中から秘密をあらわし」(11:22)と「深い」、「秘密」と訳されている。つまりそれは一見して、人間にしろ、衣服にしろ、その患部に表層に終わらない深い病理を感じる、というものなのだろう。そういう意味では新しい用語かもしれないが、深く蝕むという意味で、「浸蝕性」もしくは「浸潤性」皮膚病あるいは、ものと言ってもよいのかもしれない。
2.診断手引書としての13章
ともあれ13章は、このツァラアトと他の病気、火傷(28節)、疥癬(30節)、湿疹(39節)との区別について語る医者の鑑別診断マニュアルのようなものである。このような紛らわしい病との識別は、当時は祭司の重要な役割とされた。おそらく、疾患の診断はだれにでもできたことなのだろうが、決定的な診断は祭司の役割とされた。この浸潤性皮膚病に罹患した人は、「衣服を引き裂き」「髪の毛を乱し」「叫ばなければならない」(45節)とされる。それは、罪の罰として神から与えられる病、と考えられていたので、悲しみを表現するためである。彼らは死人と同じようにみなされ、宿営の外で暮さなくてはならなかった(46節)。
3.ツァラアトの今日的意義
ここから何を読むか、今日の日本にこのような病はないとなれば、過去のものとして読み過ごしてしまいがちであるが、改めて読みながら、この病に重ねられる象徴的な意味を理解することが重要なのだ、と思わされる。というのも、この病の性質は、罪の性質に通じている。「皮膚に広がってきたら」とあるように、しばしば罪は一つ二つというものではなく、私たちの生活全体に浸潤し冒すものである。また、「彼は汚れているので、ひとりで住みその住まいは宿営の外でなければならない」とあるように、罪は人間関係を遮断し、共同体から人を追放してしまう性格を持つ。私たちのうちにある罪が、私たち自身を、また私たちの人間関係をも変えてしまうのである。イエスは、そのような罪人の私たちに哀れみを示し、罪の赦しのために十字架にかかってくださった。本来ならば、宿営の外に、永遠に放り出されてしまうはずであったのは、私たちである。イエスは、人々が忌み嫌い、遠ざけたツァラアトの病人に、手を伸ばしてさわり、「私の心だ、きよくなれ」(マルコ1:44)と癒されている。ここに、不治の病、救いがたい罪の囚われの中にある人々に対する希望がある。
神のもとに行き、自分の罪の現実を知ることは、もはや終わりを意味するのではない。たとえその罪が浸潤性であり、一層根の深い絶望的な症状を呈しているものと判断されることがあっても、神にはこの罪を取り扱う力がある。神に近づくところに、新生の希望がある。いつでも、自分自身の問題を神に持ちより、神の取り扱いを受ける心を持ちたいものである。

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