15章 性病の診断と処置
(1)男性の慢性的漏出(2-12節)
2節、「隠しどころ」は、協会訳では「肉」と訳され、男性の性器のことを言っている。「漏出物を漏らして」というのは、流れるように出る、つまり、性器からの分泌が続いている様子を指している。だから3節、「漏らしても」、「留めていても」という対比になる。1-15節は、感染性のいわゆる性病としての異常な漏出を指している。異常な漏出は、おそらく膿のことで、現代で言う、尿道炎、膣炎、淋病による漏出であったとされる。
その病気が罪ある行為から生じたものと考えられたことから、その病に侵された者たちは宿営から追い出された。きよめのためには、水を浴びることが指示されており、きよめの七日目に、全焼のいけにえをささげることが定められている。そして、病気が完治したことを判断してもらうために、14節「会見の天幕の入り口の所に来て、それ(いけにえ)を祭司に渡す」となる。
(2)偶然の射精および生理と関連した周期性の漏出(16-24節)
次に16-24節は、異常な漏出ではなく、自然な現象としての漏出のことを言う。つまり、普通の身体的な機能としての、いわゆる性行為、もしくは夢精や女性の生理による正常な漏出であるが、こうした事態もまた、汚れとして扱われる。ただここで言う汚れは、儀式的なもので、道徳的なものではない。汚れには不浄のイメージがあるが、そうではない。むしろ、それらは世俗にかかわっている、つまり人間的な事柄であることを意識させる。神は聖であり、私たちが天に召される時にはめとることも嫁ぐこともないとあるように、それは神の次元とは異なる人間的な営みなのである。ともあれ、神に仕えることは、人間とは異なるお方に相対峙することなのだから、心身の改めが必要だというのだろう。神は神であって、人とは違う存在なのである。神を人間と同じようなものとして考え、神を地に引きずり下ろすようなことを平気でやってしまうのが、私たちの罪深さである。神の聖さは、人間の聖さで推し量られるものではない。ペテロが、「世のさらし屋ではとてもできなほどの白さ」をイエスの姿に認めているように(マルコ9:3)、それは、私たちの想像を超えたものである。つまり、そうした世界に私たちは近づいているのであり、神に仕えることはやはり恐れ多い事と言わざるを得ない。神を神としていくことが大切なのだ。
(3)女性の慢性的な漏出(25-27節)
25節からは、長期にわたる女性の異常出血である。これも汚れとして扱われる。先の1-15節の異常な漏出と同様に、16-24節の自然漏出とは区別されて、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえが必要とされる。ともあれ、これらは贖いを必要とすることであった。異常出血が必ずしも不道徳な行為の結果というわけではないのだろうから、ここでも汚れは儀式的な意味があると考えてよい。つまり、最も人間的な事象をとおして、神との区別を教える、ということである。
さて、本章は、こうして慢性的で異常な漏出と自然な漏出が、男女ともに二つ、挟み込むような構成で書かれていることに気づかされる。男性の異常漏出(2-12節)に続いて自然漏出(16-18節)、女性の自然露出(19-24節)に続いて異常漏出(25-27節)という構成がある。これは、一種の文学的修辞法であり、ヘブル詩的な交差配列法で書かれているということもできる。となると、修辞法的な意図は、中心の聖句が最も重要であり言いたいことであることを意味するのであるから、ここでは、18節の「性交」がそのポイントとなる。この行為において男女両性は、彼らの人間性が一つであることを示し、身体的にも感情的にも一体であるという感覚を持ち、また神に造られた者としてのアイデンティティを確認する(創世記1:27)。となれば、肉体そのものは罪ではないし、性行為そのものも道徳的に堕落したものではない。けれども、それは人間特有の行為であり意識を持つ必要があるのだろう。人間が人間であることを弁えて、神にお仕えする心構えと態度を持つということである。だから神に仕えるために、自らを整える心がけは必要で、神は、長血を患った女がそのまま触れたとしても汚されるお方ではないが(マルコ5:25-34)、その神の恵み豊かさを知ればこそ、その神との関係において特別な意識、態度、姿勢も必要とされるのである。
こうして続ける日々のディボーションや、信徒のためのとりなしの時も、日々当たり前にこなすものであるという意識と同時に、神の祭司として、朝ごとに、灰の中の火を起こし、祈りの祭壇を赤々と燃えたたせ、いけにえをささげていく、特別で丁重な行為であるという意識を持つ必要がある。人間的な事象を超えて目に見えぬ神に近づく特別な時を喜び、畏れかしこむ。そのようにしてやがて、本当に主にお会いする、素晴らしき時を期待していく。いよいよ日々のディボーションは重ねるごとに、それは敬虔なよき時となっていくのである。