レビ記23章

23章 主の例祭

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本日の箇所は、ユダヤ人の祭りが定められているところです。今もこの祭りは祝われており、キリスト者は、その本質的な意味を十字架のキリストにある救いと結び合わせて、別の形で守るようになっています。主の晩餐やペンテコステがそうです。その意味をよく理解しておきたいところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 「主の祭り」「主の例祭」と呼ばれるイスラエルの祝祭日について。まず遵守すべき第一の行事として週ごとの安息日が取り上げられる。神が創造のみわざを休まれ、これを聖なる日とされたことに倣うものである(創世2:3)。その日は、全ての仕事をやめ、全ての祝福の源である神を仰ぎ、神と共に休み、神を礼拝することを喜ぶ特別な日であった。安息日は、汚してはならないもの(民数15:32-36)、どの時代も尊崇されるものとして守られた(イザヤ56:2,4、エレミヤ17:21-27、エゼキエル20:14-24、ネヘミヤ10:31、13:15-22)。後の時代、安息日は、単に会堂で礼拝がなされる時としてではなく、律法が朗読され研究される時となり、さらに律法学者によって詳細多岐にわたる安息日遵守の規定が定められ、それが守られるようになった。キリスト者は、「週の初めの日」を安息日に代え、キリストの復活を記念し、その教えと交わりに与る特別な日として守るようになった。日曜礼拝は、キリストの復活を覚え、復活の主とお会いする礼拝に期待をもって集まり、その時を喜ぶ特別な日なのである。
次に一年の行事が解説される。重要なのは、過越の祭り(5-14節)、五旬節(15-22節)、ラッパの祭り(23-25節)、贖罪の日(26-32節)、仮庵の祭り(33-44節)の五つとされ、過越の祭り(ペサハ)、五旬節(シャブオット)、仮庵の祭り(スコット)の三つは、国民的な三大祭として守られた(出エジプト23:14-16)、申命16:16)。この三大祭りは、それぞれ季節の変わり目にあたる。春を告げるペサハ、夏のシャブオット、秋のスコットというわけだ。またそれらは特別な安息、聖なる会合であり、礼拝と喜びに満ちた感謝をとささげるために、民が一緒に集う時とされた。なお、「過越の祭」は、「種を入れないパンの祭り」(出エジプト23:15、34:18)「初穂の祭り」とも呼ばれている(出エジプト34:22)。「五旬節」は、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」は「収穫祭」(出23:16)とも呼ばれる先に学んだ贖罪の日(16章)は、この仮庵の祭の前に守られる。
この他、私たちに馴染みのあるイスラエルの祭りは、プリムとハヌカがある。プリムは捕囚期、ハヌカは後の時代、ハシモン王朝の時代に定められたものである。
1.過ぎ越しの祭り(ペサハ)(23:5-14)
 さて、「過越の祭り」は春の第1月(カナン歴ではアビブ、バビロン歴ではニサンの月、太陽暦では4月)14日に始まり、これはイスラエルのエジプト脱出を記念する。この日の夕暮れ、イスラエルの民は過越の子羊をいけにえとしてささげた。それは、エジプト脱出前にエジプトの初子の命が取られたことを思い出すためであった。それに続いて、パン種を入れずに作られるパンが一週間の食事とされた。パロの出国許可が下りた時に、急いで出発準備をしたことを覚えるためである。祭りの締めくくりとして、七日目の安息日の翌日に、イスラエルの民は、主にささげるための収穫の初穂の束を持参する。それは、収穫の始まりを意味した。
こうして過越の祭りは、ユダヤ人にとって、エジプトからの脱出を導いた神との契約関係にあることを心に刻む時となった。そして新約時代、キリスト者は、この過越の祭りの日に、イエスが神の子羊としてほふられ(1コリント15:20)、全人類の罪からの救いの業を開始され、イスラエルの民を救いの初穂とされたことを心に刻む時とした。そして同様の教育的・象徴的な役割を担うものとして、過ぎ越しの祭りに代わって主の晩餐を守るようになり、十字架の恵みによる救いと解放を喜ぶ時としている。
2.五旬節(シャブオット)(23:15-22)
 次に五旬節は、過越の奉献物の束を持ってきた日から数えて「七週目の安息日の翌日」と定められていた。つまりちょうど50日目に当たる(シワンの月、太陽暦の6月)。この行事が新約時代に「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのは、50番目を意味するギリシヤ語の序数ペンテーコストスの女性形、ペンテーコステーによる。過越の祭りで初穂として奉献された大麦の束は、穀物の収穫の開始を意味し、五旬節の奉献物のそれは収穫の完了を意味した。だから、イスラエルの民は、この日、収穫における天の父からの豊かな賜物と恵みを感謝し、喜び祝う日としたのである。そして神の豊かさを覚えることによって、さらに貧しい者と外国人の必要を満たすべきことをこの祭りを通して学んだ(22節)。神は愛である。一方キリスト者にとっては、イエスの十字架と復活の出来事の完了、つまり、ちょうど主の復活の50日目に、イエスが約束された通りの聖霊が下ったことを記念する日である。ペンテコステ(使徒2章)は、救いを完成する聖霊のみ業を覚える時とされた。その本質的な意味として、天の父が、私たちに必要とされるものはすべて、とりわけ聖霊を豊かに与えられることを覚えるのである(ルカ11:13)。
3.ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭り(23:23-44)
 最後に、ユダヤ歴では第七の月(チスリの月、太陽暦の10月)にラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭りが守られる。ユダヤ人にとっては、七は完全数であるので、これが一年の始まりともされる。実際、捕囚期間後、この祭りは、事実上新年の祝いの祭りとなった。そして第1日のラッパの祭りは、続く贖罪の日と仮庵の祭りに備えて集合を呼びかける意味を持った。第10日の贖罪の日は、大祭司が全国民の贖罪のために至聖所に入り、贖罪を完了する。人々はこの最も厳かな日に備えて「自分を悩ます」ことをしなければならなかった。これは祭りというよりは、断食を意味していたようである。そして大祭司は、イスラエル人が旧年に犯してしまった偶発あるいは手抜かりに起因する罪のための贖いをした。これは新約時代において、イエスによって完全な贖罪として実行されたが、その完成は終末的なものとなっている。つまり、真の大祭司であるキリストは唯一の完全な犠牲の血を携えて天のまことの聖所にお入りになったが、ご自分の民の所に戻ってこられる(再臨)という約束はまだ成就していないからである(ヘブル9:24-28)。 第15-21日に守られる仮庵の祭りは、収穫の完了を意味する一年最後の会合であり、一年の内で最も喜ばしい時である。イスラエルがエジプトから脱出した時に、最初に停泊した地は、スコテと呼ばれ(出エジプト12:37)、スコテは、ヘブル語で「仮小屋」を意味する。ユダヤ人にはそのような歴史的な神の御業に与った出来事を記念する祭りであるが、今日のキリスト者には、罪から救い出されて、今はこの地上に仮住まいであることを覚える時と言うべきだろう。人間はいずれ皆死を迎える。それは、神が整えてくださった天の都に帰っていくことを意味する。今の地上は仮住まいなのであり、天の都の希望に生きていることを覚えるべきことを伝える。私たちは、この地上に生活しながらも、この地上のことのみで終わるわけではない。やがて来る、神の都に入る真の希望に生きるように召されている。神の望みといのちに生きる歩みをさせていただこう。

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