3章 レビ族の人口調査、仕事
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本章は、別枠とされたレビ族の人口調査と、その働きについて書かれています。その中に、数値的な記述ミスがある点が、本章の議論とされているところです。しかし、だからといって神の言葉に対する信頼が揺らぐようなものではありません。神のことばは、聖書全体を読み進めば、これが十分信頼に値するものであることは自明です。今日も、皆さんの上に主の平安があるように
1.別枠とされたレビ族の人口調査
レビ族の人口調査が別枠で行われている。しかも、3章では1か月以上のすべてのレビ族の男子、4章では30歳から50歳までのすべてのレビ族男子の人口が数えられている。つまり1、2章では20歳以上の男性の人口調査であったから、別の基準が採用されている。
1)初子の代わりとなるレビ族
というのも、彼らは、イスラエルのすべての男子の初子の代わりとされた(12,13節)。初子はすべて神のものなのである。ところがレビ族の男性の数は、実際にはイスラエルの初子の数には足りず、不足分は273人であった(46節)。そこで不足分については、別の方法、つまり贖いの代金という金銭を払う方法で補われた。実際には、レビ27:6に規定されている生後1カ月から5歳までの男子に対する税の額、一人当たり5シェケルがあてられ、支払われた(49節)。
余談ではあるが、ここが聖書の発想の面白いところである。アダムとエバが罪を犯した時に、アダムとエバは人類の代表として罪を犯し、それが故に全人類が罪を犯したと語られている(ローマ5:12)。同様に、私たちが救われるのは、全人類の代表としてのイエス・キリストの贖いの故である(ローマ5:18)。この発想は、レビ人についても同じで、レビ人はすべてイスラエルの初子の代わりとされた。代表という考え方は、聖書に特徴的なものである。神がイエス・キリストの義の行為によってすべての人を義と認めたことは、確実なこととして語られる。私たちは神がイエスになされたことを自分の事として受け止めるのは、こうした神の考え方による。私たちは確実に神の救いに与っていると受け止めてよい。
2)奉仕集団としてのレビ族
また彼らが別の基準でカウントされたのは、戦力というよりは、神に対する奉仕集団として組織されていたためなのだろう。4章の異なる基準は、彼らの聖なる任務と、その幕屋の解体、運搬、建設という役割の故に、肉体的に強健と思われる高めの年齢に設定されたようである。
3)レビの働き
さてレビ族は、大きく三つの部族で構成され、幕屋の奉仕をするために聖別された。その働きは主に二つある。一つは幕屋を警備すること。もう一つは幕屋を解体し、運搬し、組み立てることにあった。そこで、ゲルション族は、幕屋の天幕と、その覆い、入り口の垂れ幕、庭の掛け幕など、布物を中心にその役を担った(25、26節)。ケハテ族は、調度類。机、燭台、祭壇、仕切りの幕、あかしの箱、祭壇である。メラリ族は、柱・板の運搬を担った(31-32節)。しかも、彼らが割り当てられた位置は、幕屋が移動した際に、その解体と組み立ての論理的な順序に沿っていた。つまり、彼らの出発順位が、そのまま到着順となり、幕屋の材料が整い、建設がスムーズに完了するようになっていたのである。
4)数の矛盾の問題
ところで、この部族ごとの登録人数の計算はどうも正確ではない。ゲルション族が7,500人(22節)、ケハテ族が8,600人(28節)メラリ族が6,200(33節)で、総計22,300人となる。ところが、39節には、合計22,000とある。どうも300人数が合わない。恐らく22,000人が登録人数として正確な人数なのだろう。となればこの300という超過人数はどこから出てくるのか。この矛盾は本文の欠損で説明されている。ケハテ族は、8,600人とされているが、元々は8,300人の記載違い、つまり6と3を書き間違えたのではないか、ということである。ヘブル語では、アラビア数字を使わず、ヘブル語のアルファベットで数字を表記する。そうなると、6と3では、綴りの一文字ラーメドが真ん中にあるかないかで3が6になってしまう。こうして300人超過された合計になってしまう、というわけだ。実際、ヘブル語のギリシャ語訳であり、テキストのより古い状態を保持していると言われる七十人訳聖書とアルメニア語訳聖書では、8300という読みを採用している。ということは原典の読みは、8300という可能性も高い。
聖書は誤りなき神のことばとされるが、このような間違いが混入していると見るべきか、そしてそれを絶対許されない間違い、聖書の信頼性に関わる問題とすべきなのか、それとも、聖書のメッセージにかかわるほど大事でも、拘るべきことでもないと見ていくのか。聖書の霊感を信じる信仰は、使っている聖書の中に不正確なことが一つでもあれば、聖書はもはや信頼に値しないと言えるほど硬直的なものではないだろう。むしろ聖書は、現代の私たちとは異なる思考と感覚の古代の著者たちの筆記の上になりたっているものである。神は人間にイエス・キリストの誕生もまた聖書も委ねられたことを覚えたいものである。神の人間に対する信頼は、私たちの神のことばへの信頼として、お返しすべきものなのだろう。聖書は誤りなき神のことばであるという信仰は、私たちと神の関係を確かなものとし、私たちに希望を与え、私たちの教会に力を与えるものである。