レビ記5章

皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。昨日、3章の記述で質問がありました。交わりのいけにえの動物は、「傷のないもの」と繰り返されているのに、先生は「欠陥のあるものでも」よかったと書いている理由は何か?と。確かに、原則は傷のないものですが、一部、交わりのいけにえの中でも進んでささげるものについては、体型が基準に合わないものでもかまわなかったのです(レビ22:23)。修正しておきました。丁寧に読んでくださってありがとうございます。皆さんのフィードバックにより、完成度の高い通読ブログになることを願っています。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.罪のためのいけにえ(5:1-13)
 最初の1-13節は、4章の続きであり、「罪のきよめのささげ物」の規定である。先の4章では、どのような人々がこのいけにえの対象になるのか、ということが論じられたが、ここ1-6節は、その罪の具体例が三つ語られる。一つは、証人として立つ立場にありながら証言しない場合(1節)、つまり人間的な弱さの故に、証言すべき時にそれができなかった問題である。具体的に、アカンが思い浮かべられる(ヨシュア7:19)。二つ目に、汚れたものに触れた場合(2,3節)、彼がその罪に気づくなら、償いのいけにえをささげる必要が生じる。三つめは、軽々しく誓う行為についてであって、後でその発言の重大さに気づかされた場合である。
いずれにしても大切なのは、罪に気づかされ、心責められるようなことがあれば、即告白しなさい、そして罪の贖いをしなさい、と教えられていることだ。罪は、よく知っている戒めを故意に犯すことばかりではない。私たちは、弱さの故に、これが罪かもしれないと思いながらも認められないでいて、後でじわじわとそのことに責められることがあるものだし、いや、その時は気にせずにいても、後でやはりこれは罪だったと気づかされることがあるものだろう。しかも人生何十年も経ってから気づかされる、こともある。しかしそうであっても、自らの姿勢を改めることに、遅すぎることはない。いつでも、気づいたのなら、その罪を告白し、罪の贖いをしなさい、という。神のいけにえを持ち寄り、悔い改めることが大切なのだ。具体的に言えば、いつでもその罪を神の前に、祈りの中で告白し、その罪の赦しのために十字架でいのちをささげてくださったキリストを覚えることである(1ヨハネ1:9)。神はすべての罪を赦し、きよめてくださる。いつまでも罪の呵責の中に自分を押しとどめていてはいけない。神が、関心をもっておられるのは私たちの過去ではなく、これからである。神は、私たちが赦しの中に心を新しくし、新しい人生を歩むことを期待されている。
2.ささげ物の例外(5:7-13)
7-13節は、ささげ物の例外について語っている。つまり、罪のきよめのささげ物は、貧しい者も献げられるように配慮されている。鳩を買う余裕のない者は、小麦粉でこれに換えることができるのだ。小麦粉は、極貧者の場合のみに例外的に許されることであり、油、乳香は添えられない。それは、穀物のささげ物と区別されるためであるが、こうしてすべての人は罪のきよめのささげ物をささげ、罪赦される特権に与る。
3.神の所有権を犯すことへの代償のささげ物(5:14-)
続く14節からは、6:7までが一区切りで、「代償のささげ物」の規定となっている。罪のきよめのささげ物と代償のささげ物にどんな違いがあるのか。実際には、ほとんど同義であり区別は難しいとされるが、ヘブル語の原語では、ハッタースとアーシャームと異なっている。あえて区別するならば、アーシャームは、神と隣人に対する償いに強調を置くことばである。実際、代償のささげ物では、他人の権利、つまり所有権などへの侵害が意識されている。だからエリコの分捕り物を着服したアカンの罪や他人の妻に手を出す姦淫の罪にこの言葉が用いられているのである。そして、実際のささげ物は、金銭的に評価に値するものをささげ、さらに、その五分の一の償いを加えなければならなかった。つまり十分の一の倍を返すということである。貨幣による価値(重さ)尺度によって、罪を清算しようとする、しかも、奉納者自身の値積もりではなく、神が定めたある一定の水準でそれをするがこのささげ物の特徴であった。代償のささげ物では、犯人の事情よりも、犯した侵害に十分な償いと補償を払う義務が重要なのである。
神は、私たちがいつまでも罪に悩まずに、即告白し、悔い改め、キリストの十字架のもとに来るように招いてくださっているのだが、罪の赦しそれ自体はそんなに簡単なものではなかった。私たちは、救いはただだ、と言ってしまうが、実際には、ただではない。簡単に、イエスの十字架の罪の赦しを考える所に、やはり、罪の自覚の弱さ、罪の赦しの恵みに対する感覚の深さに欠けているのだろう。そのような意味では、イエス・キリストの犠牲がいかに尊いものであったかを十分覚える必要がある。私たちの弱さのために、償わなければならない罪がどれほどあるかと考えてみれば、そら恐ろしい内容になるが、神の子キリストが、永遠のいけにえとして十字架にかかり、人々を罪から救うために血を流してくださったことで、「赦される(18節)」イエスが私たちのためにしてくださったことの偉大さをしっかりと覚え、イエスの犠牲を指し示し、赦しの恵みを深く味わいたいものである。神の罪の赦しの内に希望を抱いて歩ませていただこう。

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