ローマ人への手紙2章

1章では、一般に異邦人、つまり非ユダヤ人の罪が指摘されている。それは、人間社会に蔓延する、あからさまでわかりやすい道徳的腐敗とも言うべき、罪の現実を示している。しかし、罪は、行為化、表面化されるものばかりではない。実は、表向きと心の底が全く違う現実が人間にはある。建前と本音、外面や内面という言い方や偽善者ということばもあるように、多くの罪は、心の中で犯されており、肉体の鎧に遮蔽されてそれと知ることができない。特に非ユダヤ人を罪人として裁き、その低俗な倫理性を軽蔑するユダヤ人の問題を意識して、パウロはそれをこの2章で扱っている。ただ、ユダヤ人のそのような問題を指摘したのはパウロが初めではない。既にイエスご自身「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:20-23)」と表面には出にくい内側の罪の問題を指摘している。表面的には立派な人に見えても、実際にはそうではない人というのはいくらでもいるものだ。人間はどうしても人を外見で判断しやすい。しかし、イエスもパウロも、それは違うという。人は上辺を見るが、神は心を見る、と言われるように、罪人というのは、外見上のことだけではないのである。

では、いったいこれらの恥ずべき自体は、どこから来るのか。それは、被造世界の現実から誠の神の存在を知ることができるのに、知ろうとしたがらず、心を閉ざしているためである、とパウロは指摘する(1:21)。実際、パウロはルステラでもアテネでも、人間が故意に神を認めたがらない根本的な罪の現実があることを指摘している(使徒14:15-17、17:22-31)。神を認めないことがその根本問題である。

そして神は、ご自身を認めず、悔い改めず、罪を犯し続ける人間に正しい裁きをなさる。神に「怒り」ということばを加えるのに違和感を覚える人は多い。というのも、人間の怒りには、あまりにも利己的な感情が含まれることを、私たちは経験的に知っているので、神の怒りもそのような類なのか、と思ってしまうからだろう。しかし、神の怒りは、人間の罪に対する、神の聖さの応答(純粋な義憤)であり、そこに、歪められた感情はない。神の怒りを人間のそれと同じように考えてはいけない。それは神にとって通常ではない行為である(イザヤ28:21)。むしろ神の通常の行為と本質はあわれみである。だから神は、本来受ける資格のない者であれ、悔い改める者に速やかにあわれみを示し、そうではない者には、慎重に幾分ためらいがちに怒りを示されるのだ。神は確かなる審判者である。事実神が罪を正しく裁くのでなければ、どうして神は神として振る舞っている、と言えるだろうか。

ところで、ユダヤ人は、そのように上から目線ではあったが、非ユダヤ人にはない特権を持っていた。彼らは神の律法を所有していた。しかし異邦人は律法を持っていない。となれば、神は公平に裁かれるというが実際に条件が異なるのに、どう公平でありうるのか、と思う人もいるだろう。それに対してパウロは明快に答える。ユダヤ人は、神から直接律法を与えられ、教えられているので、その律法によって裁かれるが、異邦人は、律法を持たないものの、善悪を区別する神に与えられた良心を持っているので、それによって裁かれる。ユダヤ人と非ユダヤ人は異なる条件であるから異なる基準で裁かれる、ということだろう。人は与えられた光によって裁かれるのである。与えられなかった部分についてその責任を問われることはない。

そして17節、パウロはユダヤ人に向かって続けて語る。そのように律法を与えられ、事の善悪が非ユダヤ人よりもわかっていて、「盲人の案内人、やみのなかにいる者の光、愚かな者の導き手」と自認しながら、なぜ、心の中ではそれらを否定する歩みをするのか、と。表面は立派な生き方をしていても、心の中では、律法の精神に全く生きていないではないか、と。ユダヤ人は、民族的に神の特別な恩恵を受けたアブラハムの子孫であろうとして、肉体に割礼を施した。割礼は、ユダヤ人であることを証する。しかし、そんな「外見上の体の割礼が割礼なのではない」。やはり心の中がどうなのかが、問題なのだ。神に選ばれた民は、「御霊による心の割礼」を受けている者である。

私たちが、神を認めない心の現実に目を向ける必要がある。人間は、どうしても自分の心を見つめることが苦手である。それは、人間には、いつも光への愛だけではなく、闇への愛も持っているからだ。それが人間の成熟を妨げ、起きて欲しくない閃きが起こることから自分自身を守ろうとするのである。しかし、そこに人間としての成長はない。聖書の視点をもって正しく心を見つめることだ。そして心を見られる神の前に生きる姿勢を今日も大切にさせていただこう。

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