伝道者の書11章

11章 人生の不確かさを直視する

おはようございます。新世界の発見は、滝のように海の水が地平線の縁で流れ落ちている、と考えられた時代にあって、その未知の世界に踏み出す勇気がなければありませんでした。同じように、人生を安易に肯定せず、その不確かさを見て悟ることも大切です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.事柄は既に決まっている

「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「すべてに時がある(3:1-8)」と同様、キリスト者の間でもよく親しまれている。しかし、その意味は正しく理解されているとは限らない良い例でもある。というのは、1-4節は、互いに関連し、これまでの文脈に沿って一つのことを言おうとしている。1節の前半と後半は、しばしば順接的に理解されてきた。ユダヤ人の伝統的な象徴的解釈では、パンを「善意」や「親切」と考え、善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、とした。福音派のキリスト教会では、パンを「福音」と考え、福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と説教されることが多い。しかし、1節の前半と後半を繋ぐ接続詞は逆説であって、順接ではない。パンを投げる、無駄なことをしたにも拘わらず、損をしないことが起こる、ということだ。2節もそれを補足する。これはいわゆる分散投資のことを言っているが、リスクを避けるための分散投資が全く意味をなさない、今回のCOVID-19のような、予測不可能なこと、人間には制御できない力によって左右されるようなことが人生には起こりうる、というわけだ。

松下幸之助は、経営の極意は、「雨が降ったら傘をさす」にあると言ったが、伝道者は、事柄というものは、既に決まっているもので、人間の影響下にはないのだ、と言い切ってしまう(3,4節)。伝道者のそのような否定的な考え方は、5,6節で明瞭になる。つまり、人は、胎児にいのち(風)がやどる、不思議を理解しえない。神は人間の理解力を超えてすべてを支配し、物事を進めておられるのだ。人間は全く、神の前で無力である。朝の仕事がいいか、夜の仕事がいいか、仕事の成功は仕事の質によらない、行ってみれば、それは、博打と同じなのだ、というわけである。

2.そろそろ結論としよう

7節から、伝道者は、そろそろ結論のまとめへと入っていく。まず、与えられたいのちが長いものとなるのなら、人はその人生を楽しむがよい、と。しかし、人間は、死のタイムリミットの中に置かれていることを忘れてはいけない、と。人間は自分がコントロールできない、神の支配の中に生きている。だから、「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩」(9節)んだらよいのだが、神が、それを評価しておられること、神の不可抗力の力の下に晒されていることを弁えて生きよ、というわけだ。伝道者は、新約聖書のパウロのように、人生を全面的に肯定はしない。むしろ素直に、人生の闇の部分を描いている。伝道者は、神の存在を認めているが、神の愛については語らない。つまり神の赦しと恵みを深く伝えるキリスト抜きに、この世の人生を生きることが、人間にとっていかに不安定であり、脅威であるかを、彼の否定的であっても、大胆に踏み込んだ思索によって教えられるのだ(つづく)。

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