伝道者の書2章

2章 どこまで知恵があればよいのか

おはようございます。バツ印の人生を生きる愚かな人にはなりたくはないが、真面目な人生もな、…。だからちょい悪で、と冷めた心で考えることはあるものでしょう。しかし伝道者の著者は、そんな人生も虚しいと語り掛けます。少し伝道者と付き合ってみましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ちょい悪で生きてみる

第三に取り上げるテーマは、「さあ、快楽を味わってみよう、楽しんでみよう」である。それでも人生は無意味だと言えるのか?たとえば人生の楽しみの一つに酒がある。もちろん、酒に飲まれるような人生は愚かだ。だからか、酒を楽しみながら、頭はクールに、ちょい悪(ちょっと愚かな)の人生を生きてみたらどうなるのか(3節)。快楽を楽しみながらも、快楽の奴隷にならず、欲求の赴くままに楽しんで生きるのだ(10節)。事業を拡張し(4節)、大邸宅を作り(5,6節)、奴隷を得て(7節)、財産を蓄え、女を侍らせ(8節)、名声を得る(9節)。だが結局それも意味がある人生とは思えない、という。普通だったら、それだけ楽しめれば本望ではないか、と思うところだろう。しかし、伝道者は、そんなことは、何の役にもたたないし、風を追うようなものだ。自己満足に過ぎないのだ、と言う(11節)。

2.楽しみはいつまでも続かない

何が問題なのか。知恵ある生き方と愚かな生き方、どちらがよいか。それは、光と闇のどちらが優れているか、と言えば、光であるように、知恵ある生き方だろう(13節)。けれども、半分知恵ある生き方の方が良いのか、と言えば、そうは言えないのだ。というのも、知恵ある生き方をした者も、愚かな生き方をした者も、皆同じ結末を迎えるのだ。ちょっと知恵ある生き方をしようが、並外れて知恵ある生き方をしようが、結末は、愚かな生き方をした者と変わらない。「あいつは真面目だからな、ちょっと遊びも必要なんだよ」と冷めたような顔をして生きることも、どっこいどっこいなのだ。

3.誰が自分の楽しみの後を継ぐのか?

実際、誰が自分の人生の実を受け継ぐことになるのか、考えてみれば、それは一目瞭然だ。人はいつまでも生きるわけはないし、いつまでも楽しみを保ち続けられるわけでもない。やがて、人生のタイムリミットが訪れるなら、人は全てを残して、神のもとに帰っていかなければならない。遅かれ早かれ、人はその財産を放棄する。問題は、それを受け継ぐ者が愚か者になるかもしれないことだ。そうすれば、彼は愚か者に貢ぐために人生を生きたことになる。ちょっと冷めた生き方をしようと、何ともばかばかしい限りである(21節)。

おまけに、神の存在だ。人間は知恵ある者のように人生をコントロールして生きていると思っているだけで、これを操る神の存在があるだろう。人によっては、「運命」と言うが、神が采配を振るって、人の人生を左右しているのだ。神が良しとする人間には祝福された人生が、そうでない人には、神が良しとする人間の奴隷となる人生が定められている。人間は自由に生きているようでありながら、そうではない現実がある。人生において知恵ある生き方がよいなどとは、決して言い切ることはできない(26節)(続く)。

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