伝道者の書3章

3章 人間的努力の空しさ

おはようございます。このような時代であればこそ、キリストにある復活の希望にあって、望みを繋ぎたいところではないでしょうか。人は死んで終わりではない。正しきことをなさる神を恐れ、永遠のいのちに生きる希望に立って今の生を生き抜きたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.すべてに時がある

結局人生はすべて神に握られているとしたら、それは、すべての人間的な努力を無にすることを意味する。先に、伝道者が述べたのは、そのようなことだ。一般的な言い方をすれば「運命」が万事を決するのであり、それに逆らうことはできない、物事はなるようにしかならない、ということだ。

伝道者は、否定的である。ただ、伝道者は、実に練られた修辞的方法をもってそのように語っている。1-8節は、ヘブル詩特有の交差配列法を用いた、8行詩になっている。つまり、互いに対立する言葉を配列することにより、人間がどのような状況に置かれているのか、自らの所見を述べているのだ。

確かに、人は生まれる時も死ぬ時も選べない(2節)。5節「石を投げ捨てる」「石を集める」は、ユダヤ教の注解によると性的交接に関する象徴的表現であると言う。となれば、文脈から見て、「抱擁する」「抱擁をやめる」と関連した内容を語っていることになる。7節も、二つの行は、互いに結び付かないように感じるところだが、「裂く」「縫う」は喪の習慣に関係していると言う。つまり旧約時代、人は悲しみの時には衣を引き裂き(創世記37:29)、沈黙(レビ10:1-3)した。そして喪の期間が過ぎると、衣を繕い、日常に戻るのである。8節は、5節と違い、愛は愛欲の意味ではなく一般的な愛の意味である。ともあれ、言いたいことは、人が人生を自らの能力、科学、技術をもってコントロールしようとしても、それは無駄である、ということだ。

2.すべては神の計算のうちにある

ただ伝道者は、そこで、全く悲観的な言い方はしていない。すべての出来事は、天地創造の神の定めに従うのかもしれないが、それは「時にかなって美しい」(11節)。彼は、創世記にあるように「よい(トーブ)」とは言わず「美しい(ヤフェー)」と言う。何か魅力的なことがある、と余韻を持たせている。だから、運命論的な観点からすれば、与えられた限界の中で、最大限に楽しむ他はない(12、13、22節)と言う結論になるが、キリストの復活の光に照らされたパウロは、これに同意しつつ、将来起こりうる復活の展望を示し、主の働きに熱心であるように、と諭している(1コリント15:32)。神は愛であって、神は私たちに良いものを拒まれない。これがキリスト教信仰の確信である。神は、私たちの時を支配しておられる。そして私たちは良いことも悪いことも様々な事を経験していかざるをえない。しかしその全容については、神は私たちに対する最善を考えておられる。だから神を恐れなくてはならない。神に聞いて、神に従っていくことが大切なのだ。神与えられている時を素直に受け止め、良き時には感謝し悪しき時には耐え忍び、神の最善に期待しよう。

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