伝道者の書4章 地上の事柄の矛盾
おはようございます。私は、伝道者の書を読むと、一代目の一途な信仰とは別の、既に受けてしまった信仰とその意味を冷静に考える、二代目の悩みを思うことがあります。今日の二つのポイントも、新約のキリストの光を照らさなければ、厭世的な結論で終わってしまいます。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.不正と虐待が意味するもの
伝道者の視点は、永遠の事柄から、地上の事柄へと移っていく。既に、3:16-22において、伝道者は、地上の法定に不正があることに注目している。正義が力でなければならないのに、力が正義となっているあべこべの現実がある(3:16)。エレミヤやイザヤのような預言者ならここで、神は正しいことをなさる、神が裁いてくださる、と言い出すところだろう(3:18)。だが、伝道者は、不正のもとには絶望的な現実があるのみだ、と語るのだ。そして、人間が動物と変わらない存在であることから(3:19)、そもそも正義などなんの役にも立たないことを語ろうとする。全ての生き物の定めは死であり、死後に人間が動物より高き天に引き上げられると言う保証はない(3:21)。未来がないのだから、今の人生を楽しむのが最善だ、というわけである(3:22)。
基本的に4章の初めは、この考え方を踏襲し、地上のもう一つの救いようのない現実、虐待に目を注ぐ。力が正義となるところに、腐敗はつきものであり、抑圧と虐待がある。そして虐げられる者の運命も絶望的であるという(1節)。権力を握った者がそれを弱者のために誠実に用いるかというとそんなことはない。そこで出てくる結論は、死者は生者よりも幸いである(2節)。だが、3章で述べたように、死後報われる保証もないのだから、そもそも存在しないことが幸いなのだ、となる(3節)。3章の後半と合わせて社会正義の問題は、伝道者にとって人生の虚しさ、そして賢く生きることの無意味さを証しするのである。
2.労働
次に伝道者が注目する地上の営みは、労働である。何のために労働するのか。妬みに動機づけられた労働がある(4節)。しかし野心的な労働には、怠惰とほとんど変わらないのだ(5節)。なぜなら、怠惰が人滅ぼすように、野心的な労働も人を滅ぼすことに変わりはない。のんびりその日暮らしをすることに優ることはない(6節)。
また、労働の実を誰に残そうとするのか。既に、伝道者は、2:18-22で跡継ぎが愚か者である可能性を指摘し、その虚しさを語ったが、孤独な労働者の労働の虚しさを指摘する。労働は、協働であったこと、価値あるものとなる(9-12節)。だが、皆も経験しているとおり、労働の楽しさは、仕事の内容と人間関係にかかっている。そして人間関係でうまくいく職場は少ないものだ。
最後に、伝道者は一つのたとえ話をする(13-16節)。これがヨセフの物語に関連する、と指摘する説もあるが、よくわからない。ただ言いたいことは、野心的な青年が民衆の心を掴み、優れた指導者となったとしても、それは民衆の気まぐれな要求に合致しただけに過ぎないことだ(16節)。成功した労働の虚しさを語っている(つづく)。