伝道者の書5章 空しい宗教、富
おはようございます。新しい主題、宗教的営みが取り上げられます。献げ物、祈り、誓いです。そして同時に富について。いずれも最も人間臭い部分というべきでしょう。宗教に迷うのも、富に迷うのも、人間ならではの問題です。そこをどのように生きるかです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.虚しい宗教
ヘブル語聖書もそのギリシャ語訳である七十人訳聖書も、1節は、4:17となっている。新共同訳はそれに倣っているが、口語訳、新改訳はこれを5:1として訳してきた。新改訳は、5:1から9節までを一つのまとまりと解釈したためなのだろう。翻訳には解釈が入る、と言われる部分がこういうところに出てくるわけだ。
ともあれ、伝道者は、ここで新しい主題、宗教的な営みを取りあげている。信仰の本質は、聞くことにある(1節)。だが、人の信仰の現実は、聞くのではなく、長々と願いを並べ立てること(2節)、軽々しい誓願を立てるである(3-6節)。イエスも、偽善者の敬虔そうあ祈りに警告し(マタイ6:6)、虚しい誓いを戒めている(マタイ5:24)。その趣旨は伝道者と同じで、神は天におられ、人は地にいることを弁え、神への慣れ慣れしい態度を慎むことにある。神の高きを認め、恐れつつ、神に従う、これが信仰の核心である(7節)。
続いて伝道者は、あるエピソードを取り上げる(7,8節)。言いたいことは、国に抑圧と腐敗が起こっても驚くな、である。貧しい者、弱き者が、苦しめられることは、歴史に繰り返されてきた。必要とされるのは、適切な指導力を発揮するリーダーシップであるが、現実はそうではない。上に立つ指導者はただ役得に乗っかり、それを維持し、のうのうと神のように高きに居座っているだけであったりする。これもまたむなしい。
2.虚しい富
続いて伝道者は、富とその行く末の虚しさを語る(10-20節)。基本的にこのテーマは、6章に続くが、5章の筋を追っておこう。第一に、富は、飽き足りない(10節)。人の貪欲さは留まる所を知らず、決して満たされない。第二に、富は、歓迎しない人間関係を増し加える。富に群がる人々が友となるのだ(11節)。貪欲な人間が自分の富を楽しむのを眺めるなどバカバカしい限りではないか。さらに富は、それが失われることへの不安を引き起こし、不眠の種となる(12節)。確かに人間は、裸で生まれ、裸で天に帰らなくてはならない。何一つあの世に持って行くことはできないし、いつまでも自分の手元に留めておくことはできない。なのになぜ蓄えようと動機づけられるのか(13-16節)。しかも富を持っているが故の家族不和、争いがある。富を持つが故の不健康さがある。富にはよいことがない(17節)。もしあるとしたら、一生賢明汗水たらして働き、その後でパーッと楽しい宴会を開くことぐらいだろう(18節)。神が備えてくださったのだ、神が与えてくださったのだ。それを喜んだらよい。そのようにして労働と富のバランスをとって生きるなら、人生を楽しむこともできるだろう(19,20節)。だが、ただ金銭を愛するだけの人生は、既に述べたような虚しさに人を閉じ込めてしまう。言葉と富には慎重でありたいものだ。