伝道者の書6章 神と人間の力の差
おはようございます。伝道者の書、読み進むと、気持ちが沈むような気も致します。このようなコロナ禍の時には、心に励ましのある言葉が欲しいところでしょう。しかし、もう少しお付き合いいただき、このような時にこそ、自分のいのちについて考えたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.虚しい富(続き)
伝道者は、富の虚しさについて、続ける。富を豊かに手にしながら、それを楽しむこともなく死んでしまうこと(1-2節)。自ら稼いだ富が他人のものとなる虚しさがある。新改訳は、ヘブル語のノクリーを外国人と訳した。その意図はよくわからない。口語訳も新共同訳も「他人」である。何故神は、人に賜物を与えながらそれを楽しむようにはされないのか。伝道者は、「もし」を用いて、神の意思に疑問を寄せる。子どもは神の賜物であるし、また長寿も同様である。彼は神に大きな祝福を頂いたことになる。しかし、彼は、それに満足しえないで、人生のタイムリミットを迎えたとしたら、その神の祝福に何の意味があるのか。いのちに与ることのなかった流産の子の方がましだ(3節)。彼は最後の安らぎだけを知っているのだから、詰まらない人生を歩んだ金持ちよりもずっとましだろう、というわけだ(6節)。人生において人の祝福は呪いとなる場合がある。
実に人は何をしているのだろうか。単純に富を求め、幸せになることを求め、あるいは野心を満たすために、労働する。しかしその労働の本質は、口のためではないか。人間は底のない口の欲求のために働き、それは決して満たされないのである(7節)。だから知恵ある者と愚かな者、どちらがよいかなど、あまり重要ではない。ただその日の食料を口にし、生き抜いている貧しい者に何が優るか(8節)。「目が見ること」ありのままの現実「欲望のひとり歩き」は、思い描いた夢そのものである。夢見るだけの人生にどんな幸せがあると言うのか、というわけである(9節)。
2.神の力、無力な人間
そこで伝道者の本音が出てくる。天において力を持っておられる神と、無力な人間の関係に彼は思いを寄せている。すべては神によって決定されているように、人間の人生も、その人生は、創造以前に確定されている。もしこのように、人間が完全に神の手の中で、自らの人生の舵を取れないような存在として、いのちを得ているのだとしたら、その人生にどんな意味があるのだろうか(10節)。神の力は決定的で、神に逆らうことはできない。そして、神と議論し戦うことは、ヨブがそうであったように無駄な努力になる(11節)。ヨブは、神と論争を挑んで、結局神の人間の力を思い知らされる結末へと至ったではないか(ヨブ記40:1-5)。神が人間に賜物を与えて、それを楽しむことを許さないとしたら、実に神は暴力的な存在である。そして人間は神のゲームに弄ばれる無力な存在に過ぎない。実にこれも虚しい。たとえ神が善であっても、人間は神のご計画やそのみこころを知りえない(12節)。実に知恵が増せば、悩みも増すというところだろうが、この結論はどこへ続くのか、というところだろう。コロナ禍の中で、人間の人生を、少し立ち止まり深く考えてみたい(続く)。