伝道者の書8章

伝道者の書8章 あれもこれ御神のなさること

おはようございます。なかなか出口の見えない伝道者の書、後もう少しお付き合いください。人間社会の不条理さ、因果応報を、明確に言い切れない神の不可解な行動、このような中で信仰を揺さぶられる状況にある人はいることでしょう。信仰の深さを探られるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.正義はあるのか

今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろう、そんな風に思うことは誰にでもあるだろう。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りで、知恵がなかったが故に、顔を強ばらせて生きていることがある。知恵は一朝一夕で身につくものではないから、そういう時を過ごさねばならぬ、こともあるだろう。ああいう時を過ごしたから今がある、ということもある。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならない。

2節、「王の命令を守れ。あわてて退出するな」、と言うのは、王の権威を認めて、口答えしたり、挙動不審と見られたりしないようにせよ、ということだろう。なぜ、このような話題になるのだろうか。著者は、既に神の権力を問題にしてきた(6,7章)。ここで、地上の権力を取り上げ、その横暴さが神と同じであること、うかつに逆らおうものなら、不運が待ち受けている現実を指摘する(4節)。大切なのは、要領よく生きていくことなのだが、ところが、人生はそんなに単純なものではない。人に降りかかる災いは多く(6節)。人はその災いを予測できない現実があるからだ(7節)。人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性があるのだ。それは、まさに、風を止めることのできないことや死の日をコントロールできないことに等しい(8節)。

2.わからない、ただ見るのみ

人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実が社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがある。問題は、だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。

だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。ただ、伝道者の目は、覚めて社会を見ている。彼は預言者たちのように因果応報の教理をごり押ししない。また、ヨブのように、信仰的に飛躍した結論に飛びつかない。むしろ、「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている」(11節)と、神の不可解な行動と、人間社会の不条理さの現実をじっと見つめ、理性的な結論を得ようとしている。最終的な彼の結論は、どんなに知恵深く考えても、神のなさることを理解し尽くすことはできない。神がおられるとして、ただ神のなさることを観察するだけだ、という(17節)(つづく)。

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