使徒の働き10章

イエスは、聖霊があなたがたの上に臨む時に、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と予告された。ルカはすでに8章で、キリスト者が迫害によって強制的に宣教に押し出された様子を描いている。続く9章では、異邦人宣教の牽引車である使徒パウロの回心を、そしてこの10章においては、異邦人宣教が初代教会のリーダーであるペテロにビジョンとして示され、具体的に異邦人のコルネリオスが回心に導かれたエピソードが記録されている。また明日読む11章では、異邦人宣教のベースとなったアンテオケ教会の設立が語られる。つまりキリスト教がユダヤに留まらず、外へ向かって、あらゆる民族へ向かって広められていく基本的な舞台装置がどのように整えられていったのかを、ルカは、順序立てて書き進めているのである。
例によって全てを主導するのは、神である。神は準備が整った初代教会に、次のステップ、いわゆる異邦人宣教のゴーサインを出すために、二つの夢をもって二人の人物を結び合わせた。一つは、神を礼拝していたコルネリウスに、ペテロを家に招くように指示する夢である。コルネリオスはローマ軍の百人隊長で、ユダヤ教に帰依した異邦人であった。施しと祈りに務め、この日も、午後3時の祈りの時間に、祈りをささげていた。御使いが幻の中で語りかけ、ヤッファにいるペテロを招くよう命じた。理由も目的もコルネリオは明かされなかったが、コルネリオは直ちに従い、ペテロを迎えにやった。
次に初代教会の指導者であったペテロに幻が与えられた(このブログのトップページの写真は、ペテロがこの幻を見たとされるヤッファの家(史跡)である。現在は私宅となっていて、中に入ることはできない)。天が開け、大きな敷布のような入れ物に、律法が食べることを禁じた汚れた物があった(参照レビ11章)。ユダヤ人は、四つ足の動物、水の中の生き物、空飛ぶ鳥、地をはうもの、それら一つ一つについて、口の中に入れてよいものと悪いものを区別するように教えられていた。こうした定めは、衛生上の実際的な意味があったとされるが、それだけではない。むしろ、イスラエルは、神にささげられたものをもって食事をしていくことを教えられていた。それは霊的な意味を持つ。つまり、ささげられるもの、最上の聖いものでもって身も心も養い、飾る、というわけだ。思想やことば、行為、振る舞い、何にせよ、神にささげられるものをもって、自らのものとしていくことだ。どんな生き方をしてもよいと考える人もいるが、やはり人間として、神の民として、区別される生き方がある。神にささげられないようなものを、自分の生き方に取り込んではならない。ああ、確かにこの人には神がおられる、神がついておられるとはっきりわかる考え方、生き方がある。クリスチャンは、単なる禁欲主義者ではない。聖俗を区別して、俗を切り捨てるような生き方をしているわけではない。
ただ神は、ここでペテロに、ユダヤ人が区別し、除外しているものを食べるように命じた。神がそれらをきよめたのだからきよくないと言ってはならない、というわけである。神の主権によって新しく受け入れるべきものが生じた。ペテロはこの幻を理解できずにいた。そこへ、コルネリオの使者が到着し、その事情を明かされる。幻に見た動物や鳥は、異邦人のことであり、異邦人への宗教的な偏見を取り除くべきことが語られていたのである。こうしてペテロは、どの国の人であっても、信じる者はだれでも、主に受け入れられると理解していくようになった。あらかじめ彼は「地の果てまで」とキリストのビジョンを知らされていたが、そのビジョンを自分のものとして認識し、彼の行動計画とされていくまでには、時間と神の超自然的な介入が必要だったのである。私たちも同じようなものであろう。なんとも鈍い者と言えばそれまでであるが、たとえそうであっても、あらかじめ教えられていることが、理解され、自分自身の課題となり、そのことへの取り組みとなるまでに時間がかかり、神の後押しが必要なことがある。
コルネリウスの家に集まった人たちに語られたペテロの説教が記録されている(34-43節)。イエスの聖霊の力に溢れた公生涯の宣教、そして十字架と復活、これらは、すべて選ばれた民ユダヤ人に対して明らかにされたことである。しかし神の選びは、ユダヤ人が隣人に証をしていくためであった。ユダヤ人は神に与えられた神の恵みを隣人にも分かち合わなければならなかったのであり、それは明確にユダヤ人の祖アブラハムにも示されたことであった(創世記12:1-3)。私たちが選ばれたのも同じである。私たちも、福音の恵みを隣人と分かち合うこと、そしてその展開の大きさを理解するように召されている。
ペテロは幻を見るまでは、まさに自分が持っている価値の大きさをよく理解していなかった。救いは万人のものである。全世界の魂の必要を満たすものである。それは実際には、気の遠くなるような地道な活動の積み重ねにより成し遂げられることであると思えば、あまりにも野心的に過ぎるビジョンである。しかし、神が与えてくださっているビジョンは、そういう壮大なものであり、神はただ単にそのビジョンを私たちに丸投げされたわけではない。私たちがそれを成し遂げるために必要な助けを与えてくださった。だからペテロが語っていると、聖霊が下った(44節)。神がご自身のご計画を成し遂げるために必要ないのちと力を与えてくださったのである。キリスト者は、聖霊の命に生かされて日々歩み、聖霊の業を証しする。それは身近な家族から始まることもあれば、職場や学校などの関係において始められることもあるだろう。それは、究極的には全世界に向かって動いていくものである。そして、神のいのちが、私たちの働きに実を結ばせてくださるのである。神のいのちに生きることをこそ、大事にする今日一日であろう。そこに証しがあるからだ。

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