パウロが宣教地として最も多く足を踏み入れたところは、現在のトルコ地方に当たる。一般に第一次、第二次、第三次伝道旅行と呼ばれる経路のすべてでこの地方を通過している。その際にとられた共通経路が、主としてガラテヤ州南部の「ピシデヤのアンテオケ⇔イコニオム⇔ルステラ⇔デルベ」である。そこには、BC6年皇帝アウグストが建設した「皇帝街道」があった。ローマからエジプトにいたる重要な幹線道路で、沿線にはローマの植民都市が点在していた。パウロがこの経路を取ったのは、旅の安全さや便利さのみならず、福音の伝えられやすさを考えてのことだったのかもしれない。ともあれ、この皇帝街道を中心に伝道が発展したことを理解すれば、簡単にパウロの伝道経路は覚えられるだろう。第一次伝道旅行は、パンフリヤ州ペルガに上陸し、北上してガラテヤ州南部の「皇帝街道」に入り、その沿線で宣教を進めた(使徒13:14以下)。第二次伝道旅行では、陸路を取り、シリヤ州、キリキヤ州を経て「皇帝街道」に達した。第三次伝道旅行では、皇帝街道からアジヤ州へと入り、エペソ宣教が中心に進められる(使徒19:1)というように。
さて、15章の36節から第二次伝道旅行の記録は始まっている。50年の春、パウロは先に伝道した諸地方を再訪する計画を立てた。目的は、エルサレム会議の決定事項をシリヤ、キリキヤ、そのほか、パウロの第一次伝道旅行をした地域の教会へ伝えることであり、テモテがチームに加えられた。
おおよそ1700キロの道のり。東京から高速を乗り継いで、九州桜島まで出かけ、折り返して、福岡あたりまで戻ってきたような感じであろうか。徒歩にすれば44日間の旅行であったとされるから、そのペースたるや大変なものである。パウロはデルベからルステラへと移動、ここで数週間を過ごした。この町の青年テモテを伝道旅行に伴うために、割礼を受けさせたからである(使徒16:3)。ここでパウロが余計なトラブルを避けるために、テモテに割礼を受けさせたのは興味深い。またパウロは、「町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。」(3節)。すでに述べたように、宣教は教化を基本としている。信じるべき事を明確にし、教育し、信仰者の共同体を固めていくことである。
16章において、パウロは、陸路を通り、皇帝街道に入っているが、アジヤでみことば語ることを聖霊によって禁じられたとある。アジヤとは、エペソ方面のことなのだろう。この時、パウロの一向は、アパメア付近(ディナール)にいたと考えられている。アパメアは、西にアジヤ州、北にガラテヤ・ビテニヤ州、東にカパドキヤ州、南にパンフリヤ州の各州に向かう中継地であった。パウロは、当初西のエペソを目指していたが、聖霊がこれを妨げた。そして思いがけない、ヨーロッパ宣教(マケドニヤ地方とアカヤ地方)へと導かれていく。確かに東に進むのでは、アンテオケに戻ってしまい、南では、別れたバルナバの一行と合流してしまう可能性があった。そして、北のビテニヤ地方へと向かうのである。ビテニヤには、新興都市のビザンチウム(コンスタンティノープル、イスタンブール)がある。ところが、それもイエスの御霊がお許しにならなかった、という。そして迷いに迷ってトロアスまで下った時に、パウロは、幻を見るのである。一人のマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡ってきて、私たちを助けてください」と懇願する夢であった。パウロはこの幻を見て、新しい宣教地のビジョンを確信し、ただちに、マケドニヤへと向かった。こうしてヨーロッパ伝道が開けていく。道が閉ざされることで、新しい道が開かれていく。しばしば、私たちの人生には、病気になったり、反対や法的規制など物理的障害が起こったり、と様々な理由で進路が阻まれていくことがある、と感じることがあるものだ。しかし、それで、フラストレーションに陥ったり、恐れたり、抵抗するようなことがあってはいけない。ここで、神が、アジアを目指していたパウロに、ヨーロッパの道を開かれたことに注目しよう。常に、神の思いは、私たちの思いを超えるものであり、一つ一つに神の導きがある。不可抗力の出来事が、パウロを、新しい神のみこころへと沿わせていったのである。
そして神が導かれたピリピにおいて神の御業がなされた。ピリピはマケドニヤ州においては、首府のアンピポリスを凌駕するマケドニヤ第一の古代都市である。神はそこでテアテラ出身の富裕な商人ルデヤの心を開いて、パウロの話を聞くようにした。また占いの霊につかれた少女をいやしたことで投獄されるが、それをきっかけに、看守が家族と共に信仰を持つことになった。それは実に小さな実りであり始まりであったが、大きな宣教の第一歩であった。パウロはまさにこの三人の回心のために遣わされ、この三人を基礎に出来たピリピの教会と温かい友好関係を持つようになっていくのである。後に書き送られたピリピの手紙に、これら三人の名前は出てこない。しかし、それだけ親しい、宣教協力の展開があった、と考えるべきなのだろう。ピリピの教会の遺跡は、それが四つの大バシリカと八角形の礼拝堂を持ち、五~七人の監督を持つ大規模教会に発展したことを示している。祈り場と「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます(31節)」というメッセージから始まった教会が実に主の恵みによって、どのように導かれたかに注目すべきである。私たちの思いを超えた働きを導かれる神の働きに期待して教会を建てあげさせていただこう。