使徒の働き24章

パウロがカイザリヤに到着してから五日後、大祭司アナニア、数人の長老、そしてテルティロという弁護士の集団がパウロを訴えるためにやってきた。テルティロは、パウロについて三つの点を指摘している。第一にパウロは「ペストのような存在」つまり有害な人物である。そしてパウロは、ユダヤ人の間で「騒ぎを起こしている者」、さらに、彼は、「ナザレ人という一派の首領」であった。その結果、彼は、宮さえも汚そうとしたが、私たちはそれを未然に防いだ、というわけである。新改訳の注が、正しい本文であるなら、テルティロは、宮を汚すのを未然に防ごうとしたが、千人隊長のルシヤが来て私たちの間に入ったので、ペリクスの裁可を得なければならない結果になった、と自分たちの状況を説明している。
総督のフェリクスは、パウロに弁明を促した。パウロは、三つのことを整理して訴えている。まず、パウロは自分がエルサレムに来てまだわずか12日であり、群衆を騒がせ、社会秩序を乱した事実はない。実際、その証拠はない、としている(11-13節)。また、パウロは、自分たちは分派と呼ばれるが、実際には、旧約聖書の信仰を彼らと共有していることを主張する(14-16節)、そして宮を汚したと言われるが、単純にこれを否定している(17-18節)。実際パウロがエルサレムにやって来た目的は別にあった。ルカはこの点に特に触れていないが「施し」にあった。彼は異邦人の間で開拓した教会から集めた多くの献金を、エルサレム教会に送り届けていた。それは、福音の霊的な祝福に対する物質的な応答であった(1コリント16:1-4)。また彼が宮に上ったのは、まさに自身についての誤った噂(ユダヤ人の伝統に対する敵対者)に対処するためであった。彼はエルサレム教会の指導者たちのアドバイスに従って、パウロに対するに非難が誤りであることをはっきりさせるために、律法を遵守している者としてユダヤ人の習慣に沿って身を清め、さらにナジル人として誓願を立てている四人の男性のために頭を剃る費用を提供した(21:23-26)。このような時に、彼は敵対者に発見されただけでありティルテロが宮を汚したという訴えは何の根拠もないし、最高法院での騒ぎについては、復活についてのユダヤ人の教派的な対立の問題について一方の側(復活はある)に立った議論をしたに過ぎない、と答弁したのである。
パウロの弁明を聞いていたペリクスは、判決を延期した。というのも、まず事件についての事実関係を千人隊長ルシヤから聞くのが筋であると思ったからであろう。この時点で彼の裁判は公正であった。実際彼は「この道について相当詳しい知識」を持っていたので、裁判官としてふさわしい判断が働いたのだろう。そして彼は後に、妻のドルシラを連れて再びパウロを呼び出し、イエスを信じる信仰についての話を聞いたという。それは、彼の信仰に対する興味のためであったのかもしれないが、それは本格的な求道心と言えるものではなかった。彼の興味は、「正義と節制とやがて来る審判」のメッセージによって脅かされたのである。つまり彼の興味は、耳新しいことを聞きたかった程度のもので、悔い改める気はなかったのである。実際には、26節、パウロが、エルサレム教会に異邦人教会からの多くの献金を持ち運んだことを耳に挟んで、賄賂を出すことを期待していたのであろう。幾度もパウロを呼び出して話し合い、しかもそれが二年にも及んだというのであるから、ペリクスの金を貰いたい忍耐は、たいしたものである。だがパウロに金銀はなく、あるものは福音のみであった。結果彼は牢に残されることになる。パウロはフェリクスの貪欲さに二年も付き合わされた。
24章を読みながら、神のなさることがわからないと思うことがある。ユダヤ人の誤解を取り除き、物事を平和に進めようとした行為がますます物事を紛糾させ、パウロは捕らえられてしまっている。さらに、裁判官のもとへ引き出され、正義による解決が図られるのかと思いきや、不正な裁判官の思うままに、解決のない不毛な2年が過ぎていく。人生にはそういう時もあるのだ、というには、あまりにも当事者には割り切れない思いである。実際、パウロのその間の心情は述べられていないが、人によっては自分の人生がそれによってダメになっていくと深い焦りと苛立ちに捨て置かれる思いになることもあるだろう。神は何をしているのか、いつまで裁きを行わず、理不尽なままにされているのか、思わされることがある。しかし、24章からその答えを見出すことはできないが、聖書全体を読む中で、そのような問題をどのように受け止めるべきかを知ることができる。
たとえば王室の役人の息子の癒しの話にあるように(ヨハネ4:46-54)、神にとって、手遅れということはない。また、神は日時計におりた影を十度後に戻すことのできるお方である(2列王記20:11)。神の助けが遅れていることは、私たちの悔い改めが足りないからでも、私たちの過去の過ちが大きすぎるからでもない。まして私たちが性質が悪すぎるというわけでもない。むしろ、神は「おりにかなった助けを」与えようとしているのである。パウロはこの二年間、神の時に自分を委ねたのである。その結果、新しい州総督フェストゥスがカイザリヤに着任した。そしてパウロは、このフェストゥスの計らいで、念願のローマ行きを、自腹を切らずに果たすことになる。私たちは、私たちの思いを超えたことをなさる神の御手に、自分の時を委ねることを(詩篇31:15)学ばなくてはならない。常に、神はご自身を信頼する者によきものを拒まれず、またご自身のご計画を進められる。主の真実さに今日も期待しつつ歩ませていただこう。

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