使徒の働き26章

パウロが、アグリッパ王の前で弁明を開始した。パウロが語ったことは、一つは、なぜ自分がイエスに従うようになったのか、そのいきさつである(2-15節)。パウロが経験したのは、全く神を知らないところから神を知るようになったという、無神論者の回心ではない。すでにパウロは、天地創造の唯一の神を信じていた熱烈なユダヤ教徒であった。彼が転向を迫られたのは、その神が、イエスを約束の救い主としてお遣わしになったことを受け入れることである。それまでパウロは、十字架につけられたイエスは呪われた者であって、約束のメシヤではないと徹底して反対していた。だから、そのイエスに追随する者があれば、これを迫害し、罰を科し、殺害にも協力した。しかし、そのイエスが、ダマスコに向かう途上で奇跡的にパウロに現れたのである。パウロは、イエスの復活を認め、イエスを神であると受け入れざるをえなかった。彼は、イエスの十字架が呪いではなく、旧約聖書に預言された「苦難のしもべ」(イザヤ53:5)の成就であることを理解した。イエスは、私たちの身代わりとなって、神の怒りと呪いを受け、私たちを救い出してくださったお方である、というわけである。
そして二つ目に、パウロは、自分が新たな使命を得たことを語る(16-18節)。パウロは、イエスに直接、証人として任命された。その働きは、少なくとも三つの目的を達成することにある。一つは、人々の目を開かせることにある。暗闇にあること、サタンの支配の中にあることから、主に立ち返らせることである。人は皆自分が正しいと思うとおりに生きている。しかし闇の中にあり、サタンの支配の中にあることを悟ろうとしない。その現実に目を開かせることが第一目的である。そして、第二に罪の赦しを得させること。パウロもそうであったように、イエスが十字架で命をささげたことの意味を悟らせることである。そして最後に、御国を受け継がせること。そのようにして救われた人々が皆、異邦人ユダヤ人の区別なく一緒に神の御国に入るように、励まし、戒め、導き続けることにある。復活の主イエスに出会ったことが、こうして自分のすべての行動を変え、イエスに従うようにさせたのだ、と語る。
フェストゥスは、これを受けて、パウロは気が狂っている、と考えた。しかし、ユダヤ的背景を持ち「ユダヤ人の慣習や問題に精通している」アグリッパは、違った。アグリッパには、パウロが語る要点が理解できたのである。彼は、旧約聖書のモーセと預言者たちによって預言された事柄について知識があった。だからイエスが約束のメシヤであるかどうかについて、それらの預言に照らして考えることができた。だからこそ、パウロのことばは、「わずかなことば」ではあったが、アグリッパにとって、それは、決心を迫られる十分なことばであった。アグリッパは応答すべき事柄を了解していたのである。
今日の日本人に、旧約聖書の知識はない。だから往々にして闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせようとするキリスト者のメッセージは、フェストゥスのように我慢の限界を超えた狂った内容として聞こえるか、もしくは、フェリクスのように恐れを感じさせられる脅迫として受け止められるかではないか。そこで、日本人にとって必要なのは、聖書が何を語っているのかをまず理解することである。聖書の光に照らされて、自分が暗闇の中にあること、イエスの十字架の意味が理解できなかった者であること、人間にとってこの世がすべてではなく、御国を目指す生き方があることを悟らされていくことである。それは、キリスト者になっても追及すべきことで、日本人キリスト者の信仰の持ち方が、今一つ心理的慰めの域を出ず、神の召しに到達しないのは、聖書全体のメッセージについての理解が乏しいためである。
パウロは、「鎖は別として、私のようになってくださることです」と断言した。一人の人間が、自分のようになることを、誇りを持って語った。言うまでもない、闇の支配に目を開かされ、イエスの十字架愛を悟り、御国を目指すことが、この世のどんな生き方にも優り、喜びと恵みに満ちていることを伝えたいというわけである。
たとえ聖書を読んでも、斜めに読んで、自分にとって都合のよいところをつまみ食い的に読んでいてはこうはならない。あるいは、聖書を順序良く、構造的に読んで、その背景を理解することがあっても、単に頭の中の知識を整理していくような読み方でもだめである。まさに、聖書を読みながら、パウロがそうであったように、聖書のまことの著者である神に直接語られるような読み方をしていかなくては、人生を180度変える力に与ることはない。
王と総督とベルニケ、同席の人々が退場した。彼らは互いに話し合って、パウロが、死や投獄に値するものは何一つしていないことを確認した。それは、彼らの職務的な務めとして当然のことである。しかし、彼らには、実際のところ個人的に神に応答するチャンスが訪れていたのであるが、そこに応答することはなかった。神の時はいつでも来ている。神とよき時を過ごす聖書の読み方をしていきたいものである。
なお、パウロのローマ行きが確定した。結局、アグリッパを交えても、フェストゥスは、上訴理由らしきものを明確にすることはできなかった。一人の狂った男と思われる者の上訴を、そのまま伝える以外になかった。だが、それも神が用いた機会であったのだろう。パウロもそのような形でローマに行くことを願ったのかどうかはわからないが、皇帝に直接福音を語る機会として期待したかもしれない。大切なことは、私たちの生活の一つ一つの局面に、神の意図があろうことだ。私たちにはそれがどのように功を奏するのか知る由もない。そしてそれを一々気に留めて生きていくのも煩わしい。だからそのように理解しつつも、ありのままに、主を喜んで生きることがよいのだ。

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