「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」とある。午後3時は、ユダヤ教では、夕べの祈りの時間にあたる。ペテロとヨハネは、キリスト教信仰を持ちながらも伝統的なイスラエルの習慣も守っていた。彼らが、宮に上っていくと、そこに生まれつき足のなえた人が運ばれてきた。ちょうど人通りが激しくなる時だったからなのだろう。彼は施しを求めるために置いてもらっていた。
ペテロがその男に気づいた。そして彼を見つめて「私たちを見なさい」と言った。男は、何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。彼はペテロがどういう人物であるかには興味も無かったことだろう。ただ何かもらえる、そう考えただけであろう。そんな彼に全く想像を絶することばがかけられる。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」この男は、しばらくはてな?という思いであったはずである。しかしその瞬間、彼は右手を掴まれ、引き上げられ、立たされるのである。その瞬間彼の萎えた足とくるぶしに命が満ち、強くなった。人々は、「彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた」とあるが、実の所、彼自身も、ものも言えないほど驚いたであろう。それこそ彼は、何千回も何万回も、萎えた足が強くなることを願っていたはずである。彼はおどり上がってまっすぐに立.ち、歩きだした。歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、二人といっしょに宮に入って行った。彼の驚きと喜びが、そこに現されている。しばしば人間は、お金を求めるが、本当に必要なのはお金ではない。この男も同じであった。この男は、自分が本来求めていたものを手にすることができた。実に素晴らしい主の恵みであった。
しかし、より重要なのは、この奇跡と共に語られたペテロのメッセージである。人々は、神の恵みの福音を聞かされた。つまり、ぺテロは、この奇蹟が、自分たちの力や敬虔さによるものではなく、全く主イエスの恵みによるものであること(12節)、神が十字架にかけられたイエスをよみがえらせたこと(15節)、悔い改めて神に立ち返るべきこと(19節)、主が再び来られる、「万物が改まる」説きがあること、さらに、「あなたの子孫によって地のすべての民族は祝福をうけるようになる」というアブラハム契約が、契約の子の使命として今なお生きていること(25節)を語っている。十字架で殺されたはずのイエスが確かに生きておられ、その支配を確立し、やがてイエスの御国が、彼に従う者たちにより完成される、その証としてこの奇蹟が起こったのだ、ということである。2章のペンテコステの出来事にしろ、弟子たちは、立て続けに、イエスの言葉の真実さを証ししている。
ペテロに癒やされた男は象徴的な存在である。彼は、生まれつき足のきかない男であった。全ての人は生まれつき、神を認ることも感じることもできない霊的な意味での障がいを持っている。また彼は、貧しい者だったが、全ての人は神の御前では、自身の罪の負債を全く支払うことのできない破産者である。彼は宮の外にいたが、全ての人も、教会の外にあって神との交わりを失っている。しかし、彼は、全く神の一方的な恵みによって、その足を癒されたが、私たちも神の恵みによって神との交わりに入れられる。彼は、歩き、はね、神を賛美し、神が自分に何をしてくれたのかを証ししたが、私たちも神を賛美し、神の御名を呼び求め、信者と交わりを持ち、霊的な実を結び、神が自分に何をしてくださったかを証する。
13節、ペテロの頭には、マタイの福音書21:33にあるイエスのたとえがあったのではあるまいか。農夫は、父なる神のこと、しもべは、旧約時代に遣わされたたくさんの預言者たちのことである。そして、息子は、神の子イエスのこと。ユダヤ人は、このたとえ通りのことをしてしまった。ペテロは指摘する。あなたがたは拒んだのだ。そしてさらに、キリストが語ったとおりにイエスを拒絶し、神を退けたのだ、と。
大切なのは、この説教を向けられたユダヤ人は、神を知らない民ではなかったことである。彼らは神を知っていた。神に選ばれ、神に愛されている事を理解している者たちであった。しかし、彼らは神の御心を知る事に失敗し、神に背を向け、神に敵対する者となった。
この男の物語は、単純に神に祈れば、神が人を癒してくださることを示すためのものではない。また、私にではない、神にこそ力があるのだ、と言っているのではない。神に敵対している全ての人々の現実を告発している。ユダヤ人がそうであったように、今日の私たちも、神を退けて生きている罪を教え諭そうとしている。しかしそれは、未信者のことではない。信仰を持った私たち自身もそうなのである。神のことばを持ちながら、神のことばに従っていない現実がある。そのような深い罪意識を持つことができれば、私たちの霊性も大きく飛躍する。私たちは生まれながら霊的に障がいを持っているような者である。自分の罪を認められない、弱さを認められない。しかしそういう現実を受け入れ、主にあって、その障がいを乗り越えるように日々生きる者には、主の祝福がある。悔い改めをもって、新しい歩みへと踏み出させていただこう。