出エジプト記10章

いなごの災い、暗闇の災いが下される。ここでのいなごは、一般のいなごではなく、作物を食い尽くし、移動する、とのさまバッタの大群であるという。ヨエル書(2:3)にも、その災害がいかに恐ろしいものであるかが語られているが、エジプトでは古代からこの災害に悩まされ続けてきた。しかし、すでに動物は疫病で死に絶え、激しい雹により大方の穀物も収穫を期待できない状況であったのだから、この災害は、エジプトに残されていた食料がすべて失われたことを意味する。地の草木、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くされた。エジプト存続の危機に気づいた家臣たちは、ファラオを説得しようとする。「エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか」(7節)と。
指導者が、危機を意識できなければ、組織は指導者とともに滅びに突き進むだけである。周囲の家臣も同じように危機を意識できないならば、まったく致命的であるが、ファラオの場合は、家臣の具申はあっても、それに耳を傾けることのできないファラオ自身の問題があった。しかもそれは、ほとんど彼の性質の問題であった。ただ不思議なことに、聖書は、そのようなファラオの愚かさ、強情さが、主によるものであると語っている。神は、人のかたくなさに振り回されるようなお方ではない(ローマ9:18)。人が強情を張ったとしても、神のご計画が妨げられることはない。むしろ、神は、ご自身の目的(9:15,16、10:1,2)を実現するために、わざわざ人の心をかたくなにされる。
少なくとも、ここでは、災いが増し加えられることにより、エジプトの神々を崇拝することの空しさが明らかにされ、いったい自分たちが誰につくべきかが明らかにされている。そして、かつては萎縮し、自らの無能を訴えていたモーセではあるが、今や神と共にあって、王宮を闊歩し、イスラエルの民を大胆に引っ張る指導者として強くされている。さらに、このように奴隷に執着し、拘る王が、自らイスラエルの後を追い滅ぼされることで、エジプトの民もまた苦難から救い出されている。神は真実な者、正義を行う者の味方であり、たとえ、私たちが思うような方向に物事が進まずとも、愚かな指導者によって組織が壊滅させられる思いになろうとも、希望を捨てず、神の介入を待ち望んでいけばよい。
第九の災いは、暗闇であった。互いに見ることも、自分の場所から立つこともできない闇、それは一体どんな現象が起こっていたのか、と思うところであるが、一説に、アラビヤ語で「ハムシン」と呼ばれる砂嵐が起こったのだとされる。それは、冬から春にかけて吹く風で、2,3日続き、間欠的に50(ハムシン)日間続くためにそう呼ばれた。それは砂漠の砂を吹き上げ、砂塵で太陽を覆い、空気が砂塵でよどみ、ほとんど視界がゼロになる、という。「やみにさわれるほど」という言い方は、そういう状況を言うのだろう。エジプトにおいて太陽神アモン・レーは、最も偉大な神である。この神が覆われて見ることができないのであるから、エジプト人はいよいよ、イスラエルの神の力をまざまざと感ぜずにはいられなかったはずである。
ファラオは完敗であった。しかし頑なである。人間の愚かさは、根深いものである。そんな愚かさが、神の御心を妨げているように思わされるばかりか、自分も無為に振り回されているかのように思わされることがあるものだろう。そしていつまでこのような事態に忍耐をせねばならないのか、と無力感に襲われることもあるかもしれない。しかし、神の永遠のご計画が人の愚かさによって妨げられることはないし、どんな横暴も、どんな愚かさも、神は、計算の内に入れておられる。むしろ、神はご自身の愛する子のために最善を考えておられるのであり、真実に生きる者には望みがあると考えてよい。いずれにせよ、正しい者は、救いを見出すことが、聖書の語るところである。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)とある。心配して正しいことをなされる主を信じていく歩みを今日もなさせていただこう。

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