出エジプト記12章

ナイル川の水が血に変わった奇跡は、8月頃に起こったのであろうと考えられている。それは、川底から出た細かい粉状の赤土で川が飽和される異常事態で、洪水の起こりやすい8月頃の出来事と考えられるからだ。また雹の災害は、1月末か2月の初めと考えられている。大麦は打ち倒されたが、スペルト小麦はまだ生長していなかった、と語られているからである(出エジプト9:31-32)。いなごの大群はおそらく3月頃。9番目の暗闇は、ハムシンとして知られている塵嵐とすれば、それも3月頃である(出エジプト10:23)。こうして2節「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」というのは、3月となり、イスラエルではアビブ、又はニサン(出立)と呼ばれる月になる。それは、ちょうど後の雨(申命11:14)が降り、レバノン山の雪解けのためヨルダン川が増水(ヨシュア3:15)する時で、大麦の収穫が始まり、小麦は穂が出る季節である。この10日、すなわち、現在の太陽暦では3月14日に出エジプトが起こった、とすれば、モーセがファラオと格闘し、出エジプトを実現させるまでに、約7,8ヶ月かかったことになる。
 神は、14日の夕暮れ、つまり日が涼しくなる3時頃から日没までの間に、選ばれた傷のない一歳の雄の子羊をほふるように命じられた。子羊は、最初の年の雄、つまりその年に生まれた雄であることを意味している。血は、ヒソプで家の門柱とかもいに塗られた。家の門柱とかもいに塗られた血は、すべての初子を打ち、エジプトの神々に裁きを下す主が、イスラエル人をエジプト人から区別し通り越すしるしである。つまり神を恐れる者を「区別」し、神の裁きの一撃から「保護」することを目的とした。ここに厳密な意味での贖いの意味はない、それは、「厄除け」的な意味である。実際、その羊が食べられたということは、その羊が罪のためのささげ物ではなかったことを意味している。それはむしろ交わりのささげ物と言うべきものである。だから神の怒りから守られるという意味においてのみ、それは、イエス・キリストの救いの予表と考えることができる。
肉は火で焼かれ、種を入れないパンと苦菜を添えて食し、朝まで残ったものは火で焼かれた。パン種を入れないのは、悪意と不正(Ⅰコリント5:7,8)をその身から除き純潔を保つこと、苦菜は、悔い改めを象徴する。また食べる時には、出立の備えをして急いで食べなくてはならなかった。そのため、種を入れないパンは、「悩みのパン」とも呼ばれた(申命16:13)。なお種を入れないパンを食べる儀式は、一週間続けられた。七日間とは聖数であって、完全を意味しているから、それは聖なる期間とされた。 
真夜中になって、第10の災いが起こった。今までは直接的な災害から守られてきたファラオも、ついには、後継者である自分の初子に災いを招くことになった。ラメセス2世の統治は非常に長期にわたり、後継者のメルネプタはラメセスの長男ではなかった。このことからこの夜に死んだのは、恐らくメルネプタの長兄とされる。ファラオは、ついに出国を命じ、また、エジプトの民も、イスラエルの人々をせき立てて追い出すのである。
イスラエル人はラメセスからスコテに向かって旅立った(37節)。ティムサ湖の西17キロにある、現在のテル・エル・マスク―タがそうではないかとされている。男子約60万人。女子供を含めると約200~250万人程度になる。この数の正当性については、書写の間違いである、多数を表す象徴的な数に過ぎない、ヘブル語語法の特殊な数え方であるなど、聖書学者の間で多くの議論がなされてきたが、結果的に詳しいことはわかっていない。またイスラエルがエジプトに滞在していた期間が430年とされるが、創世記では400年とされ(15:13)、数値そのものには重きは置かれていない。一定期間として見るべきなのだろう。43節以降は、過ぎ越しに関する補足的な教えになるが、おそらくエジプト脱出にあたり、多くの外国人が入り混じった事態に対処して書き加えられたとされている。つまり割礼が、イスラエルの輪に入れられるしるしとなった。
ともあれ、過ぎ越しは、一つの頂点として描かれている。この後に、紅海渡渉、そしてシナイ契約締結という真の頂点が続く。にもかかわらず、イスラエルは、この日を記念とし、代々に伝えるように教えられ、後に中央聖所において守られるべき三大祭礼の一つとされた。過ぎ越しは彼らにとって、神の民としての新しい歩みの始まりであったし、エジプトに対するさばきの一撃がなければ、その歩みは決して起こらなかった。彼らはイスラエルの歴史と神の救いのみわざが堅く結びついているものであることを、その祭礼を神が命じられたとおりに守ることによって確認した。同じように神は、ただそのあわれみによって、その力強い御手によって、約束の地、祝福の地へと、私たちを導き出される。大切なのは、私たちの応答である。その力に与ろうと、神のことばを受け入れる、私たちの側の応答にある。

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