エジプトからカナンへ行く道は、「海の道」と「シュルの道」そして「巡礼者の道」と、三つある。モーセたちは、どの道を進み行くべきかで迷っていたようである。迷いに迷ってまごまごしているうちに、エジプトの軍隊が追いついてきた。そして彼らは絶叫し、神に助けを求め、モーセに訴えた。するとモーセは、「恐れてはいけない。主の救いを見なさい」と語るが、モーセは今目の前で主が救いとなってくださるとは考えたのだろうが、一体どうしたらよいのか、皆目、見当がつかない状態だったのだろう。民もモーセも神に向かって叫ぶのみであったようだ。そこに神が仰せられる。「なぜあなたは私に向かって叫ぶのか」と言うのである。「助けるといっているではないか、だから前進せよ」というわけだ。前進し続けることが救いなのである。
そして神がイスラエルを進ませたのは、第三の神の道、神が新たに創造された道である。それまではイスラエルもモーセも考えたこともなかった道、思いつきもしなかった道である。おそらく、この物語の最初の語り手と聞き手は、地名を言うだけで正確にその場所を知っていたであろうが、残念なことに今日の私たちには、その道はよくわからない。
ただこの個所では、霊的な真理を読み取ることが大切なのだろう。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れてきて、この荒野で死なせるのですか」物事がうまくいかないばかりか、それが本当に行き詰まってしまうように見えると、自分たちの決断が間違っていたのではないかと、私たちは思うわけである。自分のやってきたことはみな無駄だったのではないか、馬鹿を見る人生だったのではないかと思ったりする。そして「いったい何ということをしてくれたのです」という見当違いな言い争いをしてしまう。
それが私たちの現実であるが、信仰を持って歩むことは、私たちの思いを超えた歩みに導かれるものであることを、私たちはよくよく理解しなくてはいけない。信仰を持つといいながら、自分の決断を否定する思いを持ち続けていたら、結局プラマイゼロであることを私たちはわからなくてはいけない。13節「恐れてはいけない、しっかり立って、きょう、あなた方のために行われる主の救いを見なさい」、14節「主があなたがたのために戦われる。」主の約束のことばがある。こういうことばは、きちんと暗唱しておきたい。そしていつでも思い起こせるようでありたいし、このみことばを信じる力を養うのである。それが信仰の成長だからだ。
天地創造の神を信じながら、天地万物の支配者を信じながら、何かあるとおろおろする、あわてふためく、これでは、証にならない。いくら理路整然と、神の愛や、神の救いを語る力があっても、何かあると、動揺をさらけだしてしまう、あなたを愛している神様はいったいどこにいったのか、と思われてしまうようなことでは、人を救いに導くことはできない。何があっても、四方八方から攻められ、苦しめられることがあっても、また途方にくれることがあっても、泰然自若として、信仰に立ちうるのか、そこが問われている。創造主である神は、ご自分が創造し、保持しておられる自然、海も、水も、波も、風も、すべてを自分の思いのままに動かされるのである。その神にある希望を信じ、やるべきことを静かに積み重ねていける、そういう人こそが本当に人の心をつかむ伝道ができるものなのだろう。伝道というのは、ことばのこと、マニュアル的なことではない。日々神に信頼し、ゆるぎのない生活をしていくことそのものが、伝道である。
腹の括り方が悪い人は、しっかり腹を括るべきである。中途半端な信じ方をするのではなくて、眼前に広がる海に向かって杖を上げ、はた目から見たらほとんど愚かとしか言いようのない、信仰の一歩を踏み出すべきである。常識的に考えるだけであったら、神が新しく造られる道など考えつきもしないだろう。神を信じるなら、神の広さ、高さ、深さに心をめぐらし、神と共に冒険に出てみるべきだ。祈って人が進まぬ道を進みゆく心が必要なのだ。だから教会の具体的な必要のために祈り、祈りながら働き、働きながら開けて来た道を踏み出してみる、主が開いてくださったのなら、主の最善と主の業を信じて疑わずに、ついていくことである。こうして私たちのために闘ってくださる主を知り、神を信じること、神に信頼することを学ぶことになる。