1.マサ 試み
イスラエルはシンの荒野を出発して、レフィディムに宿営した。イスラエルは、シナイ山の北部、オアシスのない砂漠地帯に宿営したようである。そこで人のみならず、家畜の命も脅かされる事態が生じた。彼らはモーセに向かって再びつぶやいた。そして水が与えられることを期待するよりも、怒りと不信の思いをモーセに向けた。「不足は神に求めよ。そうすれば神は満たされる」という学びは、なかなか習得できないでいたのである。そればかりかいよいよ彼らは、モーセと争い、モーセを石で打ち殺そうとした。
今日、どれほどこのような愚かさが繰り返されていることだろうか。自分の必要を訴えるべき方は神であって、人ではない。神ではない人に過剰な要求をしても始まらない。しかし、いつでも、目に見える人に頼り、頼りきれなければ争う以外に能がないのが人間である。人と争うことは、主を試みることである。つまり、主を覚えないという不信仰そのものの姿である。だから大方そういう人は、祈っても何もならない、と祈りの力を信じることはないし、祈られていることへの感謝もない。
しばしば、私たちの生活上の必要は、私たちにはどうにもならないことであったりする。しかし、そのような時に、私たちは、神のもとに行き、共に祈る人々と共に祈らねばならないのである。実際、モーセは民以上の試練に立たせられていた。自らの渇きすら満たすことのできない状況の中で、200万の人の喉の渇きを癒すのである。こんな要求にどのようにして応えられるのか。だがモーセは、神に求めるべきことを心得ている人であった。不信仰の塊と化した人々の圧力は強いものがあっても、彼は神を呼び求めることのできる人であった。
神に叫ぶ人か、それとも人に向かって叫ぶ者であるか、大きな分かれ道である。モーセはこの所をマサ、メリバと名づけた。それは「試みる」「争う」を意味する。それは神がイスラエルと共におられるかどうかについて試み、いないという不信仰と争ったことの象徴である。私たちの生活にもそのように試みる、争う場がある。それは私たちの変えがたい古い生活感覚であり、行動パターンである。だが人と争うところに問題の解決も祝福もない。困難の中で、まずつぶやくことをやめ、神に期待し、神に叫ぶ者でありたい。
なおパウロは、モーセが打って水を出させたメリバの岩をキリストの型であるとしている(1コリント10:4)。人類の心の欠乏のために、神はイエスという岩を砕かれた。そこから流れ出る御霊の水が、人類のすべてに救いがもたらしたからである。
2.アマレクとの闘い
アマレクはエサウの子孫エドムの一部族である(創世記36:12,6)。遊牧民として主にパレスチナの南西の砂漠に住み、イスラエルには特別な敵対感情を抱いていた。モーセはヨシュアに軍を指揮させ、これと戦わせた。ヨシュアと選ばれた兵士たちが戦い、モーセ自身は、丘に登って祈るのである。モーセは手を上げて祈った。モーセの手が疲れ、手が下がると味方が負け、手を上げると味方が勝ったとされる。そこで、味方が勝つまで、アロンとフルがモーセの手を支えた。大切なことは、民がモーセと一緒に神に期待し、祈ったことだろう。
神は、イスラエルの民がご自身のお立てになった指導者と共に、完全に主に信頼して歩む新しい生活感覚を身につけるまで、幾度も同じような試練を通らせている。ここで学ぶべきことは、神が立ててくださった指導者と共に心を一つにして祈ることではないか。人間的に可能性を探り、優れた指導者を求め、優れた指導者の中に救いを求めようとすることは、神のみこころではない。むしろ、指導者と共に、神に求めていくのである。困難において共に膝をついて神に祈り、神に懇願することを教える牧師こそ、あなたの牧師であり、あなたの居場所である。祈祷会が軽んじられてはならない。祈祷会をいよいよ盛んにし、いよいよ霊の戦いのエネルギー源とすべきである。人ではなく、神に求めることを、第一としたい。