出エジプト記16章

1.民のつぶやき
シナイ半島を北西へ向かったイスラエルの民は、シュルの荒野へと導かれた。そこは、シナイ半島の南西部の砂地、デベット・エル・ラムレであると考えられている。今日でも泉と井戸のそば以外は、緑のまったくない土地である。すでに、第二の月の十五日、エジプトを出て一か月が過ぎていた。携えてきた食糧も底をつき、現地で何かを調達しなければならない、そんな状況だったのだろう。イスラエルの民はつぶやいた。荒涼としたシュルの荒野の欠乏感は、緑豊かな日本にいるとわからない。また、明らかに目指す地とは別方向へ移動しつつあり、行く先への不安もあったことだろう。イスラエル人は「死んでいたら」と不満をぶちまけた。
 イスラエルの民のつぶやきは、これが初めてではない。マラでもモーセに向かってつぶやいている。そこで主は、マラの水を甘い水とし、渇いたイスラエルの民の必要を満たされた。また、エジプトの紅海渡渉によって、イスラエルはすでに神の偉大さとその力を味わっていた。しかし、それほどの経験をしていながらも、困難に接して神を仰ぐことができずにいた。神のみわざに触れていながら、神を認めることのできない人間の愚かさ、頑迷さがあり、それは、かつてのイスラエルを行かせることを妨げたファラオと同じなのである。人間には、皆、ファラオと同じ不信仰な頑迷さがあることに注意すべきである。
だから、困難にあって周囲につぶやくのではなく、必要を満たされる主を直接仰ぎ求められるようになることが、信仰の成長でもある。つぶやくことは誰にでもできる。しかし、困難にあって主に信仰を抱くことは、キリスト者以外に誰ができようか。主に一切の必要を素直に語ることだ。
2.マナの奇跡
主は、イスラエルの民をマナで養われた。マナということばは「それは何ですか」の意味で、イスラエルの人々が、最初に発した疑問そのままである。聖書はマナについて、「コエンドロの種のようで、白く、その味は蜜を入れたせんべいのようであった」(16:31)と記している。多くの学者は、ぎょうりゅうの木に寄生する昆虫の排泄物だったのではないかと考えている。それは、薄い色をしていて、砂糖のような甘さがあり、急速に蒸発すると白色の粒子に固まり、地上に転び落ち、蟻の餌になるという。うずらは、冬をアラビア、またはアフリカで過ごすために、九月から十月にかけて地中海を横断し、春には再びシナイ半島を通ってヨーロッパへと移動する。イスラエルの民は、振り落とされたうずらを宿営の周囲に広げたとある(民数記11:32)。それは、うずら、あひる、小鳥は、塩漬けにして生で食べるエジプトの食習慣がイスラエルにもあって、甘いマナに飽きて塩辛い肉を食べたいとつぶやいた事情をうかがわせる。
 ともあれ、これらが男子だけで60万とも言われるイスラエルの民の必要を満たすものとなり、カナンに到着するまでの40年間続いたところに、自然界の出来事以上の、神の超自然的なみわざと配慮があったと考えるべきなのだろう。まさに二匹の魚と五つのパンの奇跡である。
 実際マナは、イエス・キリストを象徴する。マナはイスラエル人に与えられ、彼らのいのちを支えるものとなった。しかし、救い主は、全人類のために来られ、霊的な命を与えられる。イスラエル人がマナを得ることがなければ、どうなっていたことだろうか。同じように、罪人である私たちがキリストを得ることがなければ、どのような人生を歩んだことだろう。
 そういう意味で、イスラエル人が日々マナを必要としたように、罪人である私たちも日々キリストという霊的な命のパンを必要としている。確かに、神のみことばは私たちの魂を生き返らせ、健やかにする。神のみことばがあればこそ、日々、希望を持ち、新しく生きることもできる。日々の困難において、日々の戦いにおいて、神は必要な霊的な力を与えてくださる。聖書を読もう。神のことばに触れ力づけられて、今日の一日も歩ませていただこう。

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