1.イスラエルの民との契約(19:1-15)
エジプトを出てから七週目、つまり50日目にイスラエルの民はシナイの荒野、シナイ山のふもとに到着した。実に、旧約時代の律法が授与されたその同じ日に、新約時代の律法である聖霊が降臨したことは、偶然ではない。それは神のご計画による霊的な教訓である。つまり、過ぎ越しの祭りがイエスの受難と復活の日に変えられたように、旧約の律法授与記念日は、新約においては、教会への聖霊降臨記念日へと変えられたのである。
さて、シナイ山の位置については、シナイ半島の南部、北東部のカデシュ・バルネアの近く、あるは、アカバ湾の東現代のアラビヤのどこか、と諸説がある。ここでは、伝統的に言われてきた、今日ジェベル・ムーサと山とエル・ラハと呼ばれる長さ四キロ、幅六百メートルから千メートルの広い谷間しておく。そこは、かつてモーセが燃える柴を目撃し、神の召しを受けた場所であった。
その翌日、モーセは神に呼び寄せられて、シナイ山の頂上に登った。そこでモーセは主からのことばを受けとっていく。主は仰せられた。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」これがイスラエルの子らにあなたが語るべきことばである」(5,6節)。
モーセはこれを主のことばとしてイスラエルの民に伝えていく。語られたことばは、そっくりそのままではないが、これは、かつてアブラハムに与えられ、イサク、ヤコブと継承されてきた主の約束のことばそのものである。イスラエルは神の宝とされる。特別な宝、特別な価値あるものとなる、事を言う。そして彼らは、世界の他の国々のために祭司の役割を果たす。彼らが特別なのは、自分たち以外の人々のためのとりなしのためである。イスラエルを特別に選ばれた、神のみこころは「排他主義」どころか「包括的救済」を意図するものである。そして、「聖なる国民となる」というのは、特権的扱いを受けるというよりも、包括的救済を実行する者への任職を意味している。かつて族長と個別に結ばれた契約が、今度は、イスラエルの民全体と結ばれている。族長から小さく始まった全世界に対する神の祝福の計画が、もはやイスラエルの民を通して全世界が祝福される計画へと新たな段階に入ったのである。
2.神の顕現(19:16-25)
モーセは、神のことばを伝え、民は、神のことばに従うことを望んだ。そこでモーセは、民を神に会わせようとし、民に聖別を命じ、民を宿営から連れ出した(17節)。シナイ山の頂に降りて来られた主が、モーセを呼び出し語られる。「下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない」(21節)神と特別な関係にあるとしても、自らを聖別し、遜るべきであり、決して、つけあがることは出来ない。神を恐れることもなく、神を神として崇めることの無い人間のあつかましい罪の心に、私たちは気づかねばならない。神に対する信仰も期待もない心、神の前に緊張感も慎みもない心で、神に近づくことがあってはならないのである。神は心を見られるお方だから、心を聖別すべきであるし、それにふさわしい身なりや態度も求められるのである。イスラエルの民は、身をきよめ、着物を洗い、神にお会いする備えをした。
こうしてイスラエルの民の歴史に新しい局面が展開されていく。以後19~24章にはシナイで与えられた律法がどのようなものであるかを明らかにする出エジプト記の中でも最も重要な部分となる。そこには、高尚な倫理観の源泉、つまり、イスラエル民族の宗教的、社会的生活の規範制度および理想が示されている。しかしながら、それは、神の宝となり、祭司の王国、聖なる国民となるためである。つまり、選ばれて尊ばれて終わりではない。選ばれた者を通して、世の人々が神の礼拝へと招かれ、神の栄光を仰ぐようになるためである。
それは、今日のキリスト者にも言えることである。キリスト者が、神の十字架による罪の赦しを得て、神の民とされたのは、キリスト者を通して身近な家族や友人、そして知人が礼拝へと招かれ、同じ祝福へと与らせる、祭司としての役割を果たすためである。
人生は何も考えないで歩むこともできる。ただ、ひたすら自分のことだけを、自分の益ばかりを考えて生きることもできるだろう。しかし、自分が神に造られた者であり、神の祭司として立てられていること、つまり、神と罪人の仲介者となり、とりなし手となり、祝福の宣言者として立たせられていること、また、神の聖さを体現し現す者としてあることを覚えながら生きることもできる。人生には目的がある。それは、私たちの思いをはるかに超えた、目的であることを、今日、もう一度確認して歩ませていただくこととしたい。