出エジプト記2章

1節「レビ人の娘」は、「レビの娘」と理解すべきところである(民数26:59)。つまりヨケベテがケハテの妹であるとしたら、ヨケベテは文字通り「レビの娘」であったことになる。彼女に男の子が与えられた。本来ならば、生まれた子どもはパロの命令どおりナイル川に投げ込まれ、殺されなければならなかった。しかし、母親は殺すことができず、三カ月間隠し通した。子どもが大きくなり、いよいよ隠しきれない時になると、母親は子どもをナイル川に捨てる決心を固めたが、悲観的になったり、ヒステリックになったりせず、どうしたら自分の子は生き延びるのかを考え抜いた。希望のない捨て方はしなかった。たとえ自分の手を離れたとしても、神の不思議な摂理によって子どもが生き延びるように、パピルス製のかごを用意し、瀝青の樹脂を縫って子どもを入れ、神がお造りになったナイル川へ、しかも、浅瀬の葦の茂みの中へと手放した。葦の茂みの中なら、太陽の熱からも守られ、砂州や浜の上よりワニの危険も少なかった。つまりヨケベテはそれが明らかに回収されるように、神の恵みの御手に与るように子を手放したのである(ヘブル11:23)。
神は、これを水浴びに来たパロの娘に発見させてくださった。そして一部始終を見守っていた姉の機転によって、再びヨケベデの手へと返される。苦難の中で、やがて神の器となるその子の命は守られた。そればかりではない、母ヨケベテは、子どもを育てるお金すら与えられている。そして、王女によって、モーセと名付けられたその子は、神を畏れる母の一貫した価値観のもとで幼少期を過ごした後、エジプトの最高の教育を授けられ、まさにイスラエルを解放する神の器として整えられていく(使徒7:22)。モーセという名は、「引き出す」を意味すると言われるが、水から引き出されたモーセは、エジプトからイスラエルを引き出す者となっていくのである。
こういう箇所を読むと、やはり、最後まで望みを捨ててはいけない、神に期待し続けるべきであることを思わされる。「私は学歴がないから」とか「誰も自分に味方してくれる人はいない」とか、そんな世間の圧力や考え方に負けてしまって、何をやっても無理と考えているようではいけない。聖書の神は、この世界をお造りになり、世界に住まう一人ひとりをお造りになり支配しておられる全能の神である。そういう神を信じているのなら、いつでも自分の人生に神の祝福を期待すべきである。そして、物事がだめにならないような工夫を考えたらよい。神を信じるならば、無理であることは百も承知済みでも、物事を簡単にあきらめず、考え抜き、知恵を絞るべきである。実際、聖書の人物たちは、そういう神の可能性に生きた人々である。アブラハムは、「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」(ローマ4:21)」とある。で、その約束は何かというと、私はあなたを必ず祝福するという約束だ。ただそれは、自分の思い通りになることを意味しない。たとえ自分の思い通りにならないようなことがあっても必ずよいと思える結果になる、と考えるのである。
11節、モーセが大人になった時、というのは、40歳の頃である(使徒7:23)。モーセは、神のご計画に沿って、着々と整えられていた。常に良い変化は、ゆっくりと起こるものである。しかし、モーセの時はまだ来ていなかった。モーセは、同朋の苦役を見ながら、なんとかしたいと考え、イスラエル人を虐待するエジプト人を打ち殺した。イスラエルを解放したいという思いは、神のみこころに重なるものではあっても、その行動は神のご計画とは異なるものであった。私たちによくありがちな問題である。おそらく神も同じように感じるであろうということはあっても、神が同じように考え行動するとは限らない。神と人間は違うのである。
モーセは、パロの所から逃れ、ミデヤンの地に逃れたというが、モーセを匿ったのは神である。神はさらに40年の時を経過させ、モーセを偉大な指導者として整え続けた。それは長い年月のようでありながら、モーセが指導者として立つには決して遅すぎることもなかったのである。そして神もまた、モーセが整うのを待っておられた。待つのは私たちばかりではない、神もまたそうなのである。そして神は、約束をお忘れになることはない。私たちの祝福は約束されたことである。約束を固く信じる者でありたい。

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