出エジプト記20章

1.十のことば(20:1-17)
 神は、モーセを通して民に、ご自身のみこころを明らかにする種々の戒めをお与えになった。それは今日十戒と言われるもの(20章)、現代の私たちの社会では民法や刑法と呼ばれるものに相当する諸規則(21-23章)、また、礼拝の場、備品・用具・儀式・奉納物など礼拝の諸規則などである(25-31章)。
 十戒は、旧約聖書全体、また律法の中心というべきものであるが、まずその前文(2節)が重要である。この十戒を与えられたのは、他でもない、エジプトの国、奴隷の家から贖い、救い出した神である。だから、救い出された者が当然耳を傾け、従うべきものとなる。十戒を受け止めるには、滅びの穴から神によって救い出されたことを実感していればこそである。神はまず贖い主であり、次に律法の賦与者である。律法の前に救いがある。律法は、そのまさに初めから恵みという文脈の中にあるのであって、そこを押さえればこそ、真心から聴き従って守るものとして受けとめられる。
 さて、十戒は、大きく二つに区分される。初めの四つは神に対する人間の義務、残りの六つは、隣人に対する人間の義務を規定する。
 第一戒は、神の唯一性と絶対性(3節)を受け入れるものである。第二戒は、神の御名の神聖性、神の霊であることを語り、神の像を造って礼拝することを禁止する(4-5節)。それは、結局そんな形象も神を表すには十分な者とは言えず、むしろ形象に伴う誤解を与えかねないからである。また、神を形象とすることは神を限定し、物質化することにもなる。神はむしろ、ことばにおいてご自身を現わされたお方である。第三戒は、神の御名を濫用してはならないことを教える(7節)。それは、神の御名を呼び求め、誓いをしながら実行しないことは、神の実在を否定することに他ならないからである。第四戒は、安息日の定めとなる(8節)。それは、神が創造の大事業を終えられたことを記念すると同時に、エジプトで奴隷であったイスラエル人が主の御業によって解放されたことを記念する。この日、人は安息日を聖別し、偉大な御業をなさる神を覚え、その神と良き時を過ごすのである。これらの戒めを守るならば、恵みが千代にまで施されるという(6節)。私たちの行動に対して、神が無限に続く恵みをもって報いてくださる、ということだろう。となれば十戒は単なるお題目ではない。真剣に取り組むなら、その報いがある。
 続いて、後半は、人と人との関係についての戒めである。第五戒は、父母に対して子供が尊敬と配慮の心を持つことを教える(12節)。両親を尊敬することには、その命令、願望、忠告に耳を傾けることとともに、その必要や不足を満たすことも含まれているからである。こうして高齢者を尊ぶ精神は、人を人として理解することを深く教えるのである。第六戒は、すべての人が神のかたちとして造られたゆえに、その尊い命を守るべきことを教える(13節)。人の命は神からの賜物であり、不可侵であり、保証されなくてはならない。第七戒は、命をはぐくむ性を尊重すべきこと、および結婚の不可侵性について(14節)。旧約時代において、独身女性の保護を意図する社会的な制度として一夫多妻は黙認された。厳しく否定されたのは一妻多夫や、夫を持つ妻、つまり他人に属している女との性交渉であり、他人に対する権利の侵害であった。新約においてイエスは、それが黙認されたのは人間の心の頑なさのためであるとし、さらに思いや動機においてそのあり方を問うている(マタイ19:8)。人間社会の秩序と基礎である家庭のきずなは不可侵である。第八戒は、隣人の財産権を守るべきことを教える(15節)。この律法は、私有財産権を前提としている。盗むということは直接に盗むことはもとより他人の無知や弱みに付け込んで不当に所有権を獲得することも含む。第九戒は、隣人の名誉を守るべきことを教える(16節)。つまり、どんな場合にも真実を語る義務がある。最後の第十戒は、むさぼりを戒めるが、それは人間行動の動機や思いの純粋性を問いかけているようであるが、ユダヤ人にとって思いと行動は区別されるものではない。むしろむさぼりの思いや行動は、神が与えたものに満足しないこと、神の愛に対する信仰が欠如していることを教える。またむさぼりは、必然的に隣人を傷つける妬みを引き起こすものであるから、人を愛するという基本的な教えとも矛盾するのである(17節)。
十戒は、神に対する心を問う所から始まり、人に対する心を問うことによって終わる。だから、十戒については、その精神を守ることが重要だ。イエスは、これを二つの精神に要約した。すなわち、神を認め、神を愛すること、そして人を認め、人を愛することである(マタイ22:37,38)。
 また、十戒は、積極的な面と消極的な面の双方から理解していくことが大切である。たとえば、人を殺してはならないという消極的な言い方は、積極的に言えば人の命を守ることである。盗んではならないは、他人の財産を守ることにほかならない。
 最後に、十戒は常にキリストの恵みを指し示す役割を持つことを理解しておきたい。十戒は人間の罪の現実を示し、人間を絶望の淵に追い詰める。私たちにはこのような生き方はとうていできないと思うものだろう。だからこそキリストに心が向けられる。キリストの救いを望むようになる。律法と福音の双方が健全な信仰をはぐくむことになる。
2.十のことばを受け取る(20:18-26)
 十のことばを語られた神に、民は恐れを抱いた。彼らは、直接ではなく、モーセがこれをさらに解き明かすことを願っている。そのような民に、神がご自身に近づく方法を語られる。神は、土の祭壇を造るように命じられる。しかも一切、手を加えてはならない自然の祭壇である。そこに階段もつけてはならない、とする。本来ならば、土ではなく、金の祭壇とすべきところではないだろうか。あるいは、豊かな装飾を施してとするところではないか。偉大な神を崇拝するためのものであるのだから。しかし考えてみれば、神は天地創造の際に、これをすべてよしとされたのである。神は最高のものをお造りになり提供された。その神の創造の御業をよしとし、神のお造りになったものを尊び、それをそのまま用いることこそ、神のお喜びになることであろう。今あるままのものを最善、最高として認めていく、そしてそれを用いていくことこそ、神の業を認め、神に栄誉を帰すことにもなる、と言えるだろう。神がお造りになったものの価値を認め、そのものを生かすことができる者でありたい。

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