出エジプト記21章

1.ヘブル人の奴隷(1-11)
 21章は、当時の奴隷制度に基づく、奴隷に関する法規(1-11)、そして現代では、刑法にあたる戒め(12-36)となっている。
奴隷法は、旧約においては三箇所に著されており、この出エジプト記は最も古く内容も完結である。というのは申命記15:12-18では、奴隷解放の条件について何も持たせずに解放してはならない、と解放後の配慮を示し、レビ記25:39-44では、奴隷は外国人に限ると加えられる。
またイスラエルの奴隷法が他国のそれと決定的に異なっているのは、それが永続的なものではなく、寛容なものである、ということだろう。彼は七年目には解放された。またヨベルの年が来れば、たといそれが何年目であったとしても解放される(レビ25:54)。
2.刑法(21:12-27)
続く12節からは、一般に刑法に価するもので、今日の刑法総則に通じるものが散見しきわめて興味深い。まず全般を通して「罪刑法定主義」の原則がある。ある行為を犯罪として処罰するならば、予め何が犯罪であるかを明確にし、それにふさわしい刑罰の内容を明らかにする原則である。次に、他人に損害を与えても、故意または過失がない限り、賠償責任を負わせないという「過失責任主義」(13節)が示されている。また専門的な用語であるが「善管注意義務」(33節)が語られる。つまり、過失の前提として、物事には、通常であればこのぐらいはわかっていてほしいと期待されている注意義務があるもので、たとえば井戸の蓋を開けっ放しにしていれば、そこに家畜が落ちるという予測可能な事態を引き起こした責任は問われても致し方がない。そうした原則が示されている。さらに刑罰に対する考え方として(24,25節)、刑罰を応報としてのみならず、犯罪防止のために必要と考える「相対的応報刑論」というよりは、刑罰によって犯罪を相殺しようという「絶対的応報刑論」の立場が示されているのは興味深い。実に、聖書は、宗教書とは言うが、こういう点は常識の書なのである。
次に、各論的に見ていくと、「生命・身体に対する罪」いわゆる殺人罪、誘拐罪、傷害罪、過失傷害についての戒めがある。まず一般殺人罪の法的要件は、「人を打って死なせる」(12節)というものであり、その法的効果は、「必ず殺される」(12節)というものであり、この効果の適用が、殺意のあるなしをめぐるというのが、現代刑法の論点に通じて興味深い。殺意がない場合、いわゆる専門的な言い方で言えば、法益侵害についての認識がない場合(13節)は、逃れの町が用意される。しかし、故意的、つまり計画性に基づく殺意が明瞭な場合は、死刑(21:14)が規定される。次の15節は尊属殺人の問題である。日本では、1973年に違憲であるとされ現在では削除されているが、法的要件は「父母を打つ」もしくは「父母を呪う」(21:17)もので、その法的効果は、「死刑」とされる。この法的効果に死刑以外の選択はない。
18-21節は、傷害罪について。まず、今日で言う一般傷害罪(21:18-19,21)は、その法的要件を「争って怪我をさせる」とし、法的効果は「弁償」と規定する。また20節は、「傷害致死罪」(21:20)であろう。法的要件は、「杖で打ちその場で死なせる」ことで、法的効果は「復讐」を認める。なお、22、23節は「過失傷害罪」にあたる。法的要件は、「争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させる」ことである。
 最後に、今日で言う「自由及び私生活の平穏に対する罪」の「略取及び誘拐の罪」が規定される(21:16)法的要件は「人をさらう」ことであり、その法的効果は「死刑」である。今日の日本では、未成年者略取、誘拐の場合は、三ヶ月以上五年以下の懲役、営利・猥褻目的の略取、誘拐は、1年以上10年以下の懲役、身代金目的の略取、誘拐は、無期又は3年と規定されるのに比べ、死刑というのは重すぎるようでもあるが、それほど人間の自由と平穏は尊重されなくてはならない、ということだろう。
 こうしてみると、聖書が教えることは、人の常識感覚を形作ることであったと言える。聖書は、人間の良心を形作ってきた書であり、私たちはこれを単なる神のことば、倫理のテキストとしてではなく、人間が当たり前に生きるべき道を示すものとして、注意深く読み、研究する必要がある。聖書を離れて人間はありえないのである。

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