出エジプト記27章

 26章は、幕屋の本体、いわゆる聖所と至聖所についての制作を規定するものであった。27章は、祭壇の制作と、幕屋の全体、つまり祭壇と聖所を含む庭の範囲を決定する、いわゆる聖所の囲いを規定するものである。
1.祭壇(27:1-8)
 祭壇は、長さ5キュビト、幅5キュビトの正方形、2.23平方メートルの大きさである。後にソロモンが作った9平方メートルの青銅製の祭壇よりはずっと小さなものであるが、移動するサイズとしては妥当なものだった。これは全焼のいけにえの祭壇とも呼ばれている。しかし、材料はアカシヤ材、青銅を被せたとしても実際には、動物の体を全部燃やしてしまうほどの熱には耐えられなかったのではなかろうか。だからこれは祭壇の枠のことを言っているのであり、実際には、祭壇の中ほどの高さから内側に張り出している棚の上に、青銅の格子が乗せられて、その上であぶり焼きにしたのではないか、と考えられている(4,5節)。祭壇の大きさからすればそれは可能だろう。
2.庭(27:9-19)
次に、「幕屋の庭」について。幕屋全体は、東西に100キュビト(約44.5メートル)南北に50キュビト(約22メートル)の長方形の範囲で囲われた。つまり神聖さが及ぶ外側の境界を示すものである。5キュビト間隔に立てられている柱に、高さ5キュビトのより糸で織った尼布の幕をかけて囲われている。
 幕屋の入り口は、東側に一箇所設けられて、そこに、美しい四色の刺繍の施された長さ20キュビトのかけ幕がかけられるようになっている。その入り口をくぐると、幕屋の庭に入り、その正面に祭壇、そして奥に26章で見た四層の覆いのかけられた幕屋の本体が現れることになる。
また、亜麻布によって囲われたこの幕屋の庭に入ることができるのは、祭司とレビ人のみである。一般の人は、この庭に入ることができなかった。もちろん、神はすべての人が祭司であるとしており(出エジプト19:5-6)すべての人がこの庭に入ることができたはずである。が、実際にそのようになったのは、イエス・キリストの十字架の死を通してである。すべての人はイエス・キリストの十字架の血によって罪を贖われ、赦されることによって、聖所および至聖所、つまり神がおられる場、神の御前に恐れることなく立つことができる。神の前にキリストと共に立つことができる幸いに私たちは導かれているのだ。
なお、日ユ同祖論(大和民族の祖先は、BC722 年にアッシリア人に追放されたイスラエルの失われた十部族の一つとする説)を支持するわけではないが、この幕屋の構造や機能的な意味は、神社のそれと非常によく似ている。神社はユダヤ人の幕屋を模倣して作ったとも言われところである。確かに、神社の場合は、入口から入ると、洗盤に通じる手水舎、そして祭壇に代わる鳥居、その奥に幕屋本体に相当する御正殿がある。ちなみに鳥居は、エジプト人が、最後の災いの際に、家の門に血をぬった門柱とかもい(出エジプト12:23)に相当する、という。つまり、神に近づくためには、血の贖い、キリストにある罪の赦しが必要であるという真理を象徴する構造となっている。
 以前ハイデラバードのカーネル大学に行った際に、大学構内に、幕屋の実寸模型が設置されていた。かけ幕の高さは、5キュビト、2.23メートルであるから、外から中を見ることはできない。背の高いクラスメートが、ビデオカメラをかざして中を覗いたのを思い出す。幕屋は、全体として長方形をなしているが、実際には、正方形二つの組み合わせであると考える学者もいる。つまり、西の正方形の中心に契約の箱、東の中心に青銅の祭壇がある、二つの正方形が組み合わされたものであり、契約の箱(西側)は臨在を、祭壇(東側)は、供犠を象徴するのだと考えるのである。
 つまり幕屋は、基本的に犠牲をささげ、神の臨在に与る場である。それは、何人も、罪を贖われ、赦されることなくして、神の前に立つことはできない、という考えのためである。だから祭壇では、毎日絶やすことなく1歳の若い雄羊2頭がささげられた。日本人は、罪は水に流すと考えるが、ユダヤ人は、罪は血によって贖い、償い、赦されると考えた。祭壇を鳥居に代え象徴化してしまった日本人と、祭壇を実際に用いたユダヤ人の差がある。
3.常夜灯(27:20-21)
 場面は、幕屋の中になる。至聖所の垂れ幕の外側、つまり聖所の中で、ともされるともしびについて、定めが語られる。それは、一晩中ともされなければならない、と。神の臨在を隔離する垂れ幕の前は、真っ暗であってはならず、主への奉仕に用いるオリーブも最高級品質のものでなければならない。夕方から朝まで整える。それが世々守るべき永遠の掟である、という。神を覚えるところまではできている。しかし臨在の神に最高のものをささげる、そして寝ずの番をして、というところまで神を覚えられるだろうか。神の側に立つ、神と共に生きるというのはそういうことだろう。神の同労者として生きる道がある。

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