1.祭司の任命(1-9節)
祭司の任命(1-9)とその任職の方法(10-41)が記録される。これまでは、幕屋の器具や衣服について語られていたが、ここでは、実際の幕屋での儀式が要約されている。祭司に任命されるために奉納物を用意し、また、祭司の聖なる装束を身に付け、水で洗い、油注ぎをなし、聖別し任命する(1-9)。
モーセ以前にも、祭司的な機能を果たす存在はいた。ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨブたちがそうであるように、彼らは、家族、部族を代表して、祭司の職務を担っている。しかし、イスラエルにおいて公式に祭司が任命されるようになったのは、やはりこのシナイ契約の後の事である。そして祭司職は、まずアロンとその子らに特定される。彼らは、洗いと罪のためのささげ物によって、象徴的に聖別されなければならなかった。まず自らを聖別し、そして神に仕えるのである。
2.任職用の家畜のささげ物(10-28節)
(1)罪のきよめのささげ物をささげる(10-14節)
次に、祭司の務めであるが、それは第一に、家畜を罪のきよめのささげ物としてささげることである(10-14)。神の戒めを犯す結果は、犠牲動物の屠殺である。罪の結果はまさに死であり、神は私たちにその身代わりを用意された。罪を犯した者(の代表)が動物の頭に手を置き、屠り、血を祭壇の角に塗り、土台に注ぎ、脂肪を祭壇で焼く。この一連の手順は一般の人のためのものもあり、レビ記に詳しい。大切なのは、犠牲動物の頭に手を置く行為(按手)が犠牲動物と奉納者一体化の象徴となったことである。つまりそれは、罪のために受難する義務が奉納者から犠牲動物に移行したことを意味した。それ以降、犠牲動物は奉納者の身代わりとして扱われた。その行為に呪術的な意味があるわけではない。むしろ、それは信仰をもって受け止めるべきこと、つまり、血の犠牲を厳粛に受け止め、悔い改めと罪の赦しを真摯に願い、心新たにする信仰の行為によって効果が生じるのである。それはまさに新約におけるイエスの十字架が、一度限りの、永遠の完全ないけにえとして、ささげられた罪のためのいけにえであると信仰をもって受け止めるべきことの原型となった(ヘブル10:8-10)。
(2)全焼のささげ物をささげる(15-18節)
次に、全焼のささげ物(15-18)。これはイスラエルの歴史上初めてのことではなく、箱舟から外に出たノアが、礼拝の中でささげている(創世記8:20)。動物を焼き尽くし、煙として主のもとへ立ち上らせるものであり、そこにささげる人の全面的な神の献身を表そうとする。
(3)任職のささげ物をささげる(19-28節)
祭司に任職される者の罪を贖う罪のきよめのささげ物、献身を表明する全焼のささげ物、そして最後に、本来の任職のためのささげ物が規定される。これは、交わりのいけにえを含むものである(27-28)。それは、いけにえの脂肪を祭壇で焼いて神にささげ、胸とももは奉献物および奉納物として祭司のものとし、残りを礼拝者が聖所で食べるというもので、神を中心とする食卓の交わりの中に、神との平和の回復を願って行う。
以上、水によるきよめ、着衣、油注ぎ、罪のきよめのささげ物、全焼のささげ物、任職のためのささげ物(交わりのいけにえ)という一連の任職聖別式が、七日間続けて行われた。
3.祭司職に関連する種々の規定(29:29-46)
29節からは、祭司職の後継に関する規定、31節からは、任職の確認の食事、36節以降に続くささげ物は、はたして任職式と関連があるのか、そうではないのかははっきりとしていない内容となる。レビ記の祭司任職式に関する規定ではこの部分が入っておらず、従ってこの部分は別物で、新任の祭司たちが朝、夕、日ごとに祭壇上でささげる常供のささげ物のことであると考えられている(民数28:6)。
いずれにせよ毎朝、毎夕絶やすことなく、祭司は民のために働いた。今日、牧師もまた、同じように、朝ごとに、また夕ごとに行う務めがある。牧師は毎週日曜日に向けて、いわゆる「説教を作って語る」ことが務めなのではない。彼は神に「み言葉を与えられる」啓示的役割を果たす一方で、和解の務めを忠実に果たさなくてはならない。つまり朝夕絶やすことのないとりなしの祈りの務めがある。ただし、万人祭司という考えからすれば(1ペテロ2:9)、牧師のみならず、信徒もまたこの務めに招かれている。霊的な意味で、常に罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物、そして任職のためのささげ物をささげ、神の前に立ち、祭司の務めを日々行うように、信徒一人一人も召されているが、そのことを意識し、牧師と共に立つ者はわずかである。大切なのは、神と私たちの関係が根源的なものであることだ。私たちが正しい関係を神と持つことによって、すべての営みは、正しく秩序づけられるのである。