30章は、幕屋に備える調度類作成上の規定が中心であるが、付録的にあまり関連性のないトピックもいくつか加えられてまとめられている。
1.香をたくための祭壇(1-10節)
まず、香の壇について説明される。(1-10節)これは、常供の香のささげ物のためだけに作られた。絶えず、毎日朝夕ささげられるかおりの高い香のささげものであり、香の特殊な調合方法は、34-38節に詳しく、後でまた述べることにする。いけにえ用の祭壇は野外の大庭の真ん中に設置されたが、香をたくための祭壇は、幕屋の内部の「聖所」に、しかも至聖所との間を遮断する垂れ幕の前に置かれた。そして、年に一度、その祭壇の角は、宥めを行う。香の祭壇は、後で述べるように、祈りとりなしの象徴であったが、その基本的機能として宥めを確定するものであった。宥めと聖別の土台の上に祈りととりなしがある。
2.贖い金の規定(11-16節)
次に、贖い金の規定が書き記される(11-16節)。この贖い金は、会見の天幕の用に当てるために徴収されたが、重要なのはこの行為を通じて、神に贖われた者であることを繰り返し確認するところにある。人口調査は、自分の所属国を覚える行為である。その度に、贖い金を支払う、つまり、自分がお金で買い戻され自由にされた奴隷であったことを覚える。彼らはこうして人頭税に、霊的な意味を持たせた。
現代の私たちは、キリストがおささげになった尊いいのちの代価で、買い戻され、罪の支配と生活から解放された罪の奴隷である。今私たちは魂の自由を得ている。それは、キリストの犠牲的ないのちの代価による。私たちは今神の御国の民として生きている。それはすべて十字架にある尊い犠牲によるものである。礼拝の度に、感謝をもってささげることは、このような神の恵みへの感謝と決して無縁ではない。どのような意味付けを持って献金をささげているのか、またその額がそれに相応しいものであるかを、考えさせられるところである。
3.青銅の洗盤と青銅の台(30:17-21)
次に、青銅の洗盤と青銅の台(30:17-21)の作成規定。その目的は、水を浴び、死なないためであるとされる。神に不用意に近づいてはならず、やはり聖められた者として神の前に出てその務めをなすことが大切である。この行為に象徴される心の聖めをしっかりと覚えよう。あの人に対する憎しみ、ねたみ、敵対心、競争心、そういうものを洗い落として、聖なる任務のために、神の前に立つ。そのためには、キリストの十字架の血潮に洗い清められて神に近づくことだ。一人、身の程知らずに、神の前に立ってはならない。いつでもキリストと共に、否キリストよりも一歩下がって神を仰ぎ、神に祈る者でありたい。
4.聖なるそそぎの油(30:22-33)
そして聖なるそそぎの油(30:22-33)について。そそぎの油は、祭司制度の儀式に用いられた。それは、人を職務のために聖別するものであるが、同時に、幕屋の中の種々の器具類を聖別するために注がれた。この注ぎの油を受けた者の職務は重く、この油を他の者に注ぐことはできなかった。今日、神を信じる者は、聖霊の油注ぎを受ける。そして、聖霊によって強められ、聖霊の業をなす。かつて、エジプトを脱出した際に、モーセは神の霊により、災いをもたらした。しかしエジプトの呪法師たちも自分たちの秘術を使って最初は同じようにした。ただ、その業には限界があり、やがてモーセの業を、神の指であり業であると認めざるを得なかった。人間の力ある業と、神の聖霊による力ある業とは区別されなくてはならない。教会の働きは、ただ神の業としてされなくてはならない。聖霊の業をこそ求めなくてはならない。
5.香(30:34-38)
最後に、再び香について。ここでの強調は、先の油そそぎと同様、似たようなもの、自分自身のために作ってはならない、ことである(37節)。神のためにささげられるものは、聖なるものとして、常に区別されなくてはならない。根本的に、神と人を区別し、神を神として崇め、その存在を大事にする心が守られなくてはならないのであろう。私たちは造られた者である。造られ、贖われた者として、主にお仕えしなくてはならない。
なお、香の煙が、荒野の空中をまっすぐ天へ昇っていく様は、祈りの象徴であった。また、黙示録8:3-4にもあるように、それは、新約においてはとりなしのイメージを与えるものであった。つまり、朝夕と香が天に昇るように、神に届く祈り、とりなしの務めを覚えることは大切である。
トゥルナイゼンは、牧会とは祈ることである、と語っているが(『牧会学1』)、そこで祈るべきことは三つある、という。まず自分の魂がきよめられ、明るくされることを祈る。つまり、自分が神の霊の正しい道具となるように祈ること。第二に、私たちの隣人が、神の霊により、神の言に対して、きよめられ明るい心となるようにと祈る。神が人の罪を赦し、その生活の中でも栄光を受けられるようになることを祈る。そして最後に、祈りを他者のために祈るのみならず、他者と共に祈る共同体の祈りとすべきことを語る。朝夕、神の前に出て、魂のための、また民のための、そしてと共同体の祈りとすべき、主に定められた任務がある。