モーセの杖がさし伸ばされると、エジプト中に蛙があふれ出した。第二の災いである。道を埋め尽くし、家の中に入り込み、ベットの上、さらには小麦粉のこね鉢にまで蛙が入り込んできた。エジプトの女神ヘクトは蛙の頭をもって描かれる。蛙は豊穣のシンボルであり、ヘクト神は、人にいのちの息を吹き入れて生かすと信じられていた。だから、蛙が山と積み上げられ死に絶え、異臭を放ったことは、エジプト人の信仰が間違ったものに向けられていて、いのちを与えるのはイスラエルの神だけであることを示すものであった。
ファラオが初めて動揺し、モーセたちの要求を受け入れる気持ちになったのは、この災いからである。ファラオは、モーセとアロンを呼び寄せて、イスラエルの民を解放すると口走った。そこでモーセはファラオに、いつ、この蛙を除き去るべきかを決めさせている。これが明らかに神から出ていることであり、神の力が確認できるように、ファラオの意向を汲んでいるところに注目すべきなのだろう。ファラオは、イスラエルの神のみがエジプトのすべての神々に勝る存在であることをこうして学ばせられることになる。
だが、苦しみが通り過ぎ、「一息つけると思うと」ファラオの心は再び頑なになってしまう。ちょうど、私たちが、逆境から解放されると、神に対する切実な思いも祈りも忘れてしまうのと同じであろう。
「ブヨ」は、英訳では「しらみ」、新英訳では「うじ」と訳されている。「のみ」あるいは「チョウバエ」と解釈する向きもあるが、「蚊」と理解しておくのがよいのだろう。それは、清潔好きなエジプト人にまとわりつき、さらには、聖なるささげ物の獣にまでくっついたというのであるから、これは大変な災いである。呪法師は、この第三の災いを起こすことができなかった。それゆえとうとう神がエジプトの神々を裁いているのだ、と認めざるを得なかった。しかしそれでも、ファラオの心は頑なになり聞き入れなかったとある。いよいよ神の業である、と思われることを目の当たりにしながらも、人は神を信じることができない。それほどに神を認めることのできない人の罪は根が深いというべきなのだろう。
第四の災いは、「アブ」である。アブと訳されたことばは、ヘブル語でアロブ。七十人訳では「犬バエ」シリヤ語訳では「ハエ」である。また一説に太陽神の象徴である特殊なかぶと虫を意味していると言われる。つまりエジプト最強の神が、イスラエル人によって操られ、エジプト人に襲い掛かり懲らしめる災いである。しかもこの災いから、イスラエルの民が住んでいるゴシェンの地が特別に扱われ、その地にはアブが群れないようにされた。エジプトの最強の神が、イスラエルを襲うことはなかった。神の意図的な業であることがいよいよ明らかにされる。ファラオは、モーセの要求に「この国の中で」と譲歩した。しかしモーセは荒野に退かせるようにと願った。というのも、イスラエルは、エジプト人の忌み嫌う動物をいけにえとしてささげるからだ、という。確かに、雄牛はアピス、雌牛はイシス、雄羊はアモンに属する聖なる動物であり、それをいけにえとしてささげることはエジプト人には確かに耐えられないことであったことだろう。ファラオは決して遠くに行ってはならない、とさらに譲歩するが、最終的にはその約束を守ることはなかった。
強情なファラオに繰り返しチャレンジするモーセの淡々とした姿が印象的である。もはや、モーセは「あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません」(5:23)と神に訴える者ではなかった。ファラオの抵抗を当たり前のように受け止め、主のみ心を成し遂げるには多くの困難を乗り越えなければならない、ことを深く心得ている者のようである。神はご自分の民を苦難を通して救いだされる。そして、多くの人は信仰生活が積み重ねであることをよくわかっていない。人生の課題は、いよいよ複雑になり、自分たちの手には負えないと思わされることがあるだろう。そこで、単純に神に信頼して、淡々と道を踏み続けていくか、それとも、ちょっと信じて、やはりだめだ、とアップダウンしながら別のものに移り行き浮草のような日々を歩むか、大きな分かれ道である。どのような事柄にも、希望はあり、神が道を開かれると単純に信頼し、淡々と道を踏み進み行くところに、物事の根本的な変化があり、成長がある。神の祝福は、日々神に従う単純さの中に与えられるのである。私たちに本当に必要なものを知っておられるのは神である。自分の判断をよしとし歩き回るのを止めて、まずは神とよき時を共に過ごさせていただくことを第一としよう。