人が地上に増えるにつれ、人の悪も増していった。というのも、人の心に図ることは皆悪い事だけに傾くからである。神はこの様子をご覧になり、人を造ったことを悔やみ、心を痛められたという(6章)。神は後悔されるような方ではないが、擬人的に神の切なる苦悩が語られている。
2節「神の子ら」については、「天使」と解釈するもの、カインの子らに対する「セツの子ら」と解釈するものがある。文字通りに読めば、「天使」と取るのがよいようにも思われるし、ティンデル聖書注解(デレク・キドナー)もそのような解説である。しかし、実際には、デレクも根拠とする2ペテロ2:5-6にあるノアの時代についての解説から考えて、滅ぼされた「不敬虔な人たち」に対応する「敬虔な人たち」と考える方がよいのではないか、とも思う。人間が神のかたちに従って形作られたことに基づく呼び名で、パウロが言う「霊の人」、「肉の人」という呼び方に相当するものだ。つまりそういう人たちまでが、肉的な娘の美しさを見初めて、結婚するようになった、堕落の傾向を語っているのである。神を信じ、神に従う者には、あるべき人生の水準がある。人間があるべき領域を超えた、ということだろう。神の霊が、彼らにもはや永久に留まらない結果になったのはそのためである(3節)。自身の体をもって神の栄光を現すように勧めるパウロの教え(1コリント6:20)を思い起こしたいところではないか。
さて、先に触れたノアの物語がいよいよ本格的に語られる。ノアは、義しい人であり、エノク同様に「神とともに歩んだ」と記録されている。つまり、いるべき所で生き抜いた人の例である。ユダヤ人の伝承によると、ノアの祖父メトセラは、その父エノクの生涯にならって神の道を熱心に歩む者であった。ノアはこの祖父の影響を受けて育ったのかもしれない。しかし信仰は、個人的なものであり、一人ひとりがどう神の招きに応じて生きているかが問われるもので、家系の良しあしの問題ではない。「信仰によってノアはまだ見ていない事柄について御告げを受け」(ヘブル11:7)と語られているように、ノアもまた神の秘密を打ち明けられたアブラハム同様に、信仰の人であった。しかしその信仰の人の日々の歩みは、何十年もの月日をかけて大きな箱舟を地上に黙々と造り続けるものであり、それは実に世の人々の目には奇妙に映るものであったことだろう。
実際箱舟は、1キュビトを45センチで計算すると、長さ135メートル、幅23メートル、高さ13メートルの大きさである。16節からすればそれは三階建ての大きさであった。J・C・ホイットクウムによれば、船の容積は約4万立方メートルあり、鉄道の貨車が522台入る広さである。アウグスティヌスは、これを寓意的に解釈しようとするが、古代において、この程度の建造物は知られていなかったわけではない。実際ハーレイは、バビロニヤの伝説を取り上げ、ノアがエデンの園の跡から約110キロ北西のユーフラテス河畔ファラに住んでおり、造船と河川交通に幼少時代から親しんでおり、こうした建造が不可能ではなかったと考える。
ともあれ、こうした規模の箱舟は趣味的に出来ることではない。ノアはまさに神の命令に全身全霊を打ち込み、自分の生涯を注いだのである。来るべき裁きを信じ、「恐れかしこみつつ」「すべて神の命じられるままに」、乾いた地上にこれだけの巨大な船を作り上げる。しかもそれは一日二日のことではない。何年も何十年もかかったことであろうから、それだけ奇異の目にさらされたことを思う時に、確かにそれは神への従順を示す以外の何物でもなかった。なおF・A・シェーファーは、ノアが箱舟を造りながら、神に立ち返るように人々に説教をした(2ペテロ2:5)可能性を指摘する。ノアは、神と心一つになり、神の手足となって歩んだ。
ノアの物語は、単なる昔話ではない。私たちもまた信仰によって神の命令に応じるように招かれている。毎週日曜日、人々が自分の楽しみのために時間を費やす時に、敢えて教会に集い主を礼拝し、教会の完成を目指すことは、しばしば奇妙に見えることである。それを何年も何十年も忠実に続けていくことそれ自体が大きなエネルギーを要することである。まして、神と共に、教会を町の真中に建てあげ、主の栄光を現そうとすることは、全身全霊を、いな、全てを投げうって地上に巨大な箱舟を作り上げることに等しい行為である。いや、そうでなければ教会の開拓も成長もあり得ないのである。
さて、そのように取り組むノアに対して主は「あなたと契約を結ぼう」(18節)と言われる。神はノアとのその家族を救うための契約を結ばれた。これは現代の人々への語りかけでもある。神を認め、神のことばに従うノアの子らには、救いが約束されている。神を畏れ信じ、神が命に従って、箱舟ならぬ教会を完成させる、これが神からの命令であることを覚えたい。今日も神の命令に従わせていただこう。