創世記10章

 ノアの息子、セム、ハム、ヤペテの系図が記録される。地名についての知識が乏しいと、たいくつな片仮名の羅列にしか見えない。まず、ヤペテの子どもは7人である。またその孫も7人。そして数えられた民族の数は70人。よく出来たと言うか、意図的な書き方なのだろう。つまり、この系図は、全人類の系図を書き現わしているようでありながら、実際には、代表的な全人類の系図である。どのように代表となる民族を選んだのかは定かではないが、一人の人、ノアから再出発した全人類のつながりを書き現わそうとしたことは確かだ。
まずヤペテは、北方地帯に分散した民族である。海沿いの国々は、地中海とカスピ海の周辺の地域であり、そこに住む人々は、一般にはインド・ヨーロッパ人種として分類されている。ゴメルとマゴグは、黒海北部のスクテヤ人、マダイは、アッシリヤ東方のメディア人、メシェクは、黒海沿岸の南西部に住む民族、アシュヶナズは、ドイツ地方に流れた人々、タルシシュは、スペイン南部のギリシヤ植民地の人たち、ドダニム人は、ギリシヤ北部の人々を指す。つまり、メディアからスペインにおよぶ黒海沿岸から地中海までの国々にノアから分かれた子孫が分布することを示しており、自国民以外の者は皆、異邦人というよりも兄弟と呼ぶべき存在である。
次に、ハムであるが、ハムは南方地帯に分散した。クシュはエジプトの南、エチオピアを指す。クシュの子孫は、紅海沿岸地域に広がった。ニムロデは、特記すべき有名人であったようだが、その意図はよくわからない。ただ、ここは、泡沫として消えていく人類の歴史の中に、人業とは思えぬほどに目覚ましい国づくりをし、記憶される人物がいたが、それもまた神の御心の中で起こった歴史の動きである、ことを示しているのだろう。人が歴史を作るのではない、神が許される中で、人の歴史が起こっていく。そういう意味では、この地上でどんなに目覚ましい働きをしようと、財力や権力を振るおうと、それらは皆、神のみ許しの中で起こっているのである。それを自分の力による、と考えるのが人間の傲慢さであり、愚かさである。すべての人が神に機会と時を与えられて秀でもし、没落もすることを、私たちはもっと謙虚に受け止めていかなくてはならない。
ミツライムはエジプト。バベルはメソポタミヤ南部、エレクは、バビロンの南東約200キロの町。アカデは、バビロニヤ北部の町アッカド。シヌアルは、バビロニヤの北西部。アシュルはアッシリヤである。ハムの子カナンの子孫は別枠で特記されている。これらの民族は、イスラエルの歴史の中でイスラエルが戦った中心的な民族である。彼らも本来戦う相手ではない。同朋である。
最後にセムの子孫。エラムはバビロン東方、26節、ヨクタンの子孫としてあげられている名は、アラビヤ系の部族である。
32節は結論である。「以上が、その国々にいる、ノアの子孫の諸氏族の家系である。大洪水の後にこれらから、諸国民の民が地上に分かれ出たのであった」つまり人類はもともと一つであった。それが、それぞれの国語民族に散らされていくのであるが、その原因は次の11章に詳しい。大切なのは、11章にあるように、罪の故に、呪われ散らされていった民族がまた、神のあわれみによって一つとされるビジョンが聖書において提示されていることだ。それは最終的に、黙示録で明示されるのであるが(7:9)、神の救いの計画は、もともとあった一つであった民族が、再び一つにされることに他ならない。ということで、この10章は、神の救いの計画の前提を理解するものとして重要なものである。そして、私たちの宣教の目標も、この散らされた民族が一つとされる、ことにある。宣教の目的は単にキリスト者の数を増やすことではない。むしろ散らされた民族を一つとしていく、ことにある。となれば、教会の最も重要な使命は、近隣の破れを回復すること、近隣の人々を一つにしていくことにある。この主の使命に立つ教会が、どうして地域から浮き出ることがあろうか。教会が地域にとって宝となるのは、まさに、この一つにするという福音宣教の恵みを担っているからである。

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