「これらの出来事の後」、戦いの後で、ということだろう。それは、部族長というよりも、都市国家の統治者に挑んだゲリラ戦であったから、アブラムにとっては、当然報復を恐れるところがあったはずだ。そんなアブラムに、神は三つの約束をもって、力づけている。
第一に「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」(15:1)神が盾となってくださるという。神は私たちの守りとなってくださる。また神は私たちの必要を満たす方である。私たちは神にあって一切のものを所有するのであり、神を抜きにして満ち足りることはない。
第二に「さあ天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:5,6)東京の夜空の星数は少ないが、地方であれば「あなたの子孫はこのようになる」あるいは、「海辺の砂のようになる」(22:17)という祝福の豊かさを実感できるだろう。その祝福は身震いするような内容である。
実際に人の道筋を決められるのは神であって、人ではない。私たちは自分の人生は自分が切り開くものだと考えている。だから自分の手持ちの札がなくなれば、もう自分の人生に可能性はない、と考えてしまいがちである。しかしそうではない。神が「海辺の砂のような」祝福を計画し、各人に定めておられる。それを真実であると受け入れて、どこまでも神の御思いに心を合わせて生きる時に、神が何であるかを知ることにもなる。斜に構えたような心を捨てて、神に対して率直な心を持とう。
もちろんアブラムも能天気に神の言葉を受け入れたのではない(3節)。アブラムは自分が老齢で跡継ぎ息子がいない現実を神に訴えている。そんなアブラムに、神は、現実の可能性ばかりに目を向けることを戒められる。そして、ただすべてをお造りになった神にのみ期待するように、天を見上げさせるのである。神を信頼しない人生は、自分の力と現実の可能性の中で生き抜くだけの人生である。アブラムは信仰に生きる道を選び取った。神が私たちの思いもよらぬ、最善の道筋を備えておられる。そう考えてみよう。人生が随分と楽になり、楽しみにすら思えるのではないだろうか。
最後に、アブラムは、しるしを求めている。アブラムは信仰の偉人であると教えられているが、そうでもなさそうなところがある。実際、彼は、勝ち目のない戦に臨んでかろうじて勝ったのだから、その後の保証を得る必死な思いもあったのだろう。神の加護の確実さを確認せざるを得なかったのである。そんなアブラムに神がお付き合いくださった点に注目しよう。信仰を与えてくださるのも神なのだgh。
当時、動物を真二つに切り裂き、その間を通る行為は、契約を交わし、その契約を確認する方法の一つであり、古代カルデヤ人の間でよく用いられたものであった。契約を破った場合には、裂かれたものと同じ状態になることを承知する意味があった。しかしこの契約において、アブラムは深く眠っていた。契約を確認する行為を行ったのは神だけである。つまり、契約を破ったら、神ご自身が自分を裂くと約束されたのである。ここに神が一方的に、自らに義務を課した約束がある。神は、祝福をすると約束されて、その祝福が守られなかったら死を持って報いると堅くその約束を確認されている。しかし、これが神の恵みの性格と、イエスの十字架の救いの性質をよく示している(エペソ2:8,9)。
もし、敵に囲まれる状況にあり、敵に陥れられ、逃げ場もなく、無力さの中に恐れを覚え、神の御心に対する忍耐が失われそうに思われるならば、天を見上げることにしよう。天と地をお造りになった偉大な神を覚え、その星を数えてみることにしよう。いや海辺の砂を思い浮かべてみよう。そして神が一方的にご自身の恵み深い性質に基づいて契約を交わされたことを信じよう。信じられない時にこそ、敢えて信頼してみよう。いや信じられなかったら率直にその思いを神に語り告げてみよう。「主よ、信じます。不信仰な私をお助けください」と。信じさせてくださるのも神である。