ヘブロンから西へ2.5キロ程の道のりに、「アブラハムの樫の木」と呼ばれる一本の老木がある。聖書が言うマムレの樫の木とされているものだ。その日、アブラハムは、マムレの樫の木の側、天幕の入り口に座っており、妻サラは天幕にいた。そこに、「三人の人」が現れた。通説は主なる神と二人の天使と説明されるものである。実に、聖書の神は、行動される神である。人間が捜し求めるまでもなく、神ご自身が私たちを訪ねてくださる。
アブラハムはそれとなく気づいて、ベドウィンのもてなしの風習に従って、足を洗う水を用意し、木の下で休むように勧めた。そして天幕にいたサラのもとへと急ぎ、パン、小牛、凝乳で旅人たちをもてなした。
当時の天幕は、山羊の毛で造られていた。山羊の毛を手で編み、布地にし、小さな繊維で細い布を作り、編んだものである。山羊の毛を刈る頃になると、古いテントは修繕され、新しいテントが建てられる。テントの大きさは、家族の人数によるが、だいたい3-5メートル四方であった。3列に並んだ9本の支柱で支えられ、真ん中の列は2.1メートルの高さ、両脇は、1.8メートルの高さで傾斜していた。中は二つに仕切られ、手前は男子用、奥の間は婦人用である。床はなく、わらのマット、毛の敷物があれば上等であったという。
さて、318人のしもべがいながら、自らもてなすアブラハムに対して、訪問者は、年老いたサラに子どもが授けられる約束を告げるが、サラは信じられず心の中で笑ってしまう。興味深いことは、13節、神がサラの不信仰に対してアブラハムを非難されていることである。アブラハムは、自分では信じていたのだろうが、その協力者であるべき妻サラに同じ信仰に立たせることができずにいたのである。あるいは、まだ告げていなかった、ということも考えられるが、恐らく、笑ったのはアブラハムのことばを馬鹿げたことと聞き流していたことによるものなのだろう。「主に不可能なことがあろうか」聖書の神は全能の神である。全能性に対する信頼が、信仰の本質である。サラは、自の不信仰に気づかされたのであろう、恐れて自らのことばを打ち消している。そして、これ以降サラも信仰の人となっていく(ヘブル11:11)。
人間には、不可能という現実の壁が立ちはだかる時がある。年を重ねた妻サラ(11節)に自分の子供を腕に抱く望みなどありえなかった。しかし神は、そこであえて、「主に不可能なことがあろうか」と語られる。神が約束されたことは、不可能と思われることであっても実現する。しかし、不可能なことがすべて神の御力によって可能になるわけではない。それは、神の力に限界があるのではなく、神のご計画の故である。
続いて神は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」(17節)と語られた。神は訪問される方であるばかりか、告げ知らされる方である。そしてアブラハムのとりなしを導いた。神は、人間に対して積極的に関わろうとされる。この世に不正があれば、自らの主権をもって、さばかれようとする。だが、主権者であられる神は、同時に「知りたいのだ」(21節)とも語っておられるように、裁きを下すことに慎重なお方である。神は高き天の御座から地を見下ろし、悪しき人間を見つけ出すや否や怒りの鉄槌を下される方ではない。むしろ、神は天から下り、人となって、人の間に住まわれる(ヨハネ1:14)。人の歩みを同じ目の高さでご覧になって、その心の奥にあるものを理解し、必要な行動を取られるお方である。つまり神は、審理を尽くすよき審判者なのである。その神がアブラハムにソドムとゴモラの裁きを告げ知らせられた。
ただこの物語の中心は、悪をお裁きになる正義の神を語ろうとしているところにあるのではない。むしろ人間のとりなしを導こうとし、神のご計画の奥深さを示される神にある。神は、審理を尽くすと同時に、良き結果に導くことを願う神である。それはちょうど、イエスが30年の公生涯において、人間の状況について審理を尽くし、さらに十字架において全人類を悔い改めを導こうとされたことと同じである。神はアブラハムのとりなしを導いた。アブラハムがその神の心に応じて、祈りの内に語りかける。まるで友に話すかのような語りかけである。実際、「神の友」ということばには、神とアブラハムの親しい関係が表されている。もはやアブラハムは追従者ではなく、神のご計画の協力者として描かれている。アブラハムは、もしや、その町の中に正しい者がいるかもしれない、神と対話を繰り返し、滅ぼさない限度の数を十人にまで引き下げた。ヘブル語で十人は「ミニヤン」で、会衆の祈りがなされるための最小単位とされる。つまり神に心を開いて祈る者たちがいるなら滅ぼさないように、と、彼は人間の側にたってとりなしたのだ。とりなしは重労働のようなものだ。しかし敢えてその役を買って出ることは、モーセのように(出エジプト32:32)、またイエスのように(イザヤ53:12)、偉大な主の御業を完成するためには必要とされることである。それなくして、アブラハムを通して地上の全ての民は祝福されるという(12:1-3)主の祝福の約束の実現もあり得ない。私たちはただ単に能天気に主の祝福に与るのではない。やはり自らを神のしもべとして差し出し、とりなしという重い責任を果たす仲介者であることによってはじめて、主とともにその祝福の栄冠に与るのである。