アブラハムは、最愛の子イサクをいけにえとしてささげるように命じられた(2節)。神の命令としては理解し難い出来事であるが、その目的は、アブラハムが神を畏れて歩んでいるか否かを試すためであった(12節)。アブラハムは、目に見えるところによらず、目に見えない神を認め、神を第一として歩んでいるかどうかを試されたのである。私たちは裸で生まれ、裸で神のもとに帰っていく。年寄り子であるイサクは、アブラハムにとって大変かわいいものであっただろうが、いつでも何一つ持たない自分が本当の自分なのだ、とわかっていなくてはいけない。私たちは富や機会、そして名誉など具体的に見えるものを愛しやすい者であるが、すべて、これを備えてくださる神にこそ、心を留め、恐れ、愛し、敬うのが本当だろう。しかし、そのような基本的な恵みを私たちは理解できずにいる。
アブラハムはこの命令に、即座に従っていく(3節)。火とたきぎ、そしてイサクをつれて出かけた。嫌々ながらではない。信仰をもって、よき結果を確信しての従順であった(5節、ヘブル11:17-19)。アブラハムが出かけて三日目、神が示された場所が見えた。モリヤの丘とされ、今日は神殿の丘と呼ばれている場所である。現在では、そこには「岩のドーム」と呼ばれるイスラムの寺院が立っている。伝説によれば、預言者マホメットがこの丘の岩から多数の天使を従え馬に乗って昇天したという。しかし歴史的には、そこは、もともとダビデが主の祭壇を築いて、罪のためのいけにえを捧げ(1歴代21:26-28)、さらにソロモンによって最初の神殿が建てられた場所となる(2歴代3:1)。
アブラハムはその地に着くや否や、付き人に、自分たちは礼拝をして戻ってくる(5節)と語って別れた。アブラハムは神の目的を理解していた。第一のものを第一として、神を畏れ、神に従順を示すか否かである。そしてこれが、礼拝として語られていることに注意しよう。礼拝をささげることは、神あってこそ人間は人間として存在しうることを認めるもの、つまり人間存在の根源を確認する行為である。そして神の祝福を受ける時である。アブラハムは、神の祝福を受けた。神は無意味に、私たちにチャレンジを与えられるお方ではない。神が勧められることには、私たちの思いを超えた計画と祝福がある(ローマ8:28)。事実神は、全焼のいけにえを備え、イサクを返された。そしてアブラハムは、神が「備えられる主」(14節)であることを学んで行くのである。「全能の主」から「永遠の神」に、そして「備えられる主」へとアブラハムの神観が引き上げられていく。キリスト教信仰に生きることは、神が何であるかを深く味わい知ることに他ならない。神は、私たちの頭で捉えきれるものではないが、その実在は、深く味わい知ることができるお方である。
なお、この物語は、神の救済の物語からすれば、キリストの十字架を予表するものとされる。イサクに薪を負わせることが、必然的にヨハネ19:7で語られている、イエスが十字架を背負うことを思い起こさせるからである。
また、アブラハムは、この礼拝によって二つの約束を受けた。一つは、子孫を増し加えること(15:5)、そしてアブラハムの子孫が敵に勝利することである(22:17,24:60)。神が口先でこれを約束されたわけではないことに注意しよう。神は約束されたことを実現するために、即座に動き始めているのである。創世記の著者は、約束と同時に動き始める神を意識している。ナホルの系図(20-24節)に注目しよう。ここは、単なる挿入節として読み過ごされ易いところである。しかし、「これらの出来事の後、・・・リベカが生まれた」と記録される。そこに、私たちは、推し量りがたい神のご計画の一端を垣間見る。神は約束通りに、アブラハムの子孫繁栄のための、最愛の子イサクの妻リベカを登場させている。アダムが眠っている間にエバが備えられたように、ここでも神は、ご自身のみが知るご計画を進められている。実に、神は私たちの知らぬ所で、私たちを祝福するために働いておられる。神のご計画の深さを覚え、どんなときにも主を信頼して従い、神を礼拝する者でありたい。第一とすべきものを第一とするならば、すべては備えられるのである。