創世記28章

ヤコブは、エサウの恨みを買い、自分の身を守るためには家を出ざるを得なかった。混乱した家庭の中で、父イサクの我に返ったような祈りがささげられている(3,4節)。イサクは、妻のリベカと一致して、ヤコブを妻の父ベトエルの家に送りだし、全能の神の名によってアブラハムの祝福を祈った。イサクの祈りには、ヤコブを通して地の民が祝福される発想はないが、信仰によってふたたびヤコブが約束の地に戻ってくるように祈られている。不思議なことであるが、神は、イサクの一家の霊的な無知や暗さを、そのまま用いて、歴史的なご計画を進められ、最終的にはイサクの祈りに応答してくださった。
「あなたののろいは私が受けます」(27:13)と度胸のよさを見せた母リベカの最善の策はヤコブを逃がし、エサウから遠ざけ、その後のヤコブの歩みを神に委ねることであった。リベカには何もできなかった。ヤコブの孤独な旅が始まる。ヤコブが受けた祝福の祈りは、思わぬ不確実な未来へとヤコブを押し出したのである。
さて兄エサウの怒りは激しかった。しかし、父イサクのヤコブに対する祈りは、暗黙の警告となり、エサウは、それ以上ヤコブに関わることはできなかった。むしろ、エサウは、父イサクの関心をかうためにイシュマエルの家に行き三人目の妻を迎えた。イシュマエル人はヘテ人よりはましであったかもしれない。しかし、イシュマエル人は神の約束の民ではない。ボタンの掛け違いのように、どこまで行ってもエサウの霊的センスはずれていた。つまり彼には、神の選びと祝福という霊的な事柄についての理解がない。生まれながらの人間の限界がそこにある(1コリント2:14)。霊的なことを理解するためには霊的な力が必要である。それはまさに神のあわれみと恵みによって備えられるものであり、神は求める者に、それを惜しまれないのである。
 他方カナンの地を後にするヤコブはどうであっただろうか。彼は、父イサクが語る「全能の神」が共にいることを覚えさせられつつも、現実はただ一人迷い旅に出されたことをじわじわと感じたに違いない。日が沈んだ。ヤコブは硬い石をまくらにして疲れた体を横たえた。悔しさを胸に、いつの間にか眠りこけてしまったのであろう。何とも哀れである。だがヤコブは一人のようで、一人ぼっちにはならなかった。イサクの祝福の祈りも、決して空振りではなかった。主がヤコブの傍らに立たれたのである。しかもヤコブが、主を求めたわけでも、彼が放蕩息子のように主を認めて、主のもとに帰ってきたわけでもないことに注意すべきだろう。神の方から御使いとすべてのものを従えて、ヤコブに会うために出て来られたのである。それは、全く神の豊かな憐れみと恵みを示すものであり、そこに、ヤコブを叱責することばも、ヤコブに何かを要求することばもなかった。むしろイサクに授けられた祝福は真実であるという約束を確証するのである。ヤコブにとって、神の語りかけを直接聴く経験は、まさに求めずして不意にやって来た、というべきだろう。ヤコブは、それによって人から聞かされて信じる信仰ではなく、自ら神に直接語られ信じる経験へと導かれている。実に、頭で考えていても信仰はわからない、議論していても信仰はわからない。既に神は聖書によって自らを明らかにしているのだから、聖書に向かい、耳を傾け、聞くことから信仰は生じ、信仰の歩みもついてくると言えるだろう。
ヤコブは朝早く起きると、自分がまくらにした石を立てて、油を注いで聖別した。夢に応答して、神がおられるこの地を礼拝の場所とし、必ず収入の十分の一をささげると約束し、請願を立てた。ヤコブは、十分の一を、神に対する贈り物と考えず、返礼と考えた。神の語りかけを真剣に受けたヤコブの姿がそこにある。ヤコブは神の祝福のことばを聴いて、そうなればよいと楽観的に生きたのではない。それが自分の人生に起こるものである、と信じて歩む決心をしたのである。神を信じる者には、神がともにおられると確信し、神の思いに応えていく心と実践が必要である。信仰の歩みは神の招きに対する応答に他ならない。
私たちの信仰の原点となり、人生に転機をもたらすベテルにしっかりと立っていくことが期待される。ヤコブにとって、体を横たえたルズの荒野は、「神の家」「天の門」とはとうてい思われなかったことであろう。私たちにも同様に「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」ということがある。しかし、何の可能性もなき所、何の希望も見出しえないところに、神はともにいてくださる。だから神を信じるならば、神を信じない人と同じように望みのない人生を生きることはない。万物の主を信じるならば、そこに私たちの思いを超えた可能性があることに、私たちの目が開かれるからである。
後にヤコブはディナの事件で家族が窮地に立たされた時、そこに赴き、祭壇を築きエル・ベテルと呼んでいる(創世記35:6-7)。そこは神が現れた地で、ヤコブにとって生涯忘れえぬ地となった(48:3)。ルズは、エルサレムの北21キロに位置し、その町の遺跡はAD1934年、W.F.オールブライトによって発掘されている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です