ベエル・シェバからハランまで約800キロメートル。長旅の末、ついにヤコブは、伯父の住む町にたどり着いた。そこに井戸があった。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、そこでヤコブは伯父の娘ラケルに出会う。それは偶然というよりも神の祝福のご計画に基づいたものだった。ラバンの家に迎えられるとヤコブは、「事の次第のすべてを話した」。ヤコブが自分のありのままを語ったのは、もはやエサウを騙した古い自分とはお別れして神の祝福を受けた子として、誠実な歩みをしたいと思ったからなのだろう。
しかしながら、人間の世界はそんなに甘くはない。自分が誠実になったからといって、誠実さが返ってくるとは限らない。自分が新しく生き直したいと思っても、世の中がそれを許さないことがある。人間は皆自分と同じように考え行動してくれるわけではない。ラバンは、ヤコブの誠実さを評価したが(14節)、逆にこれを利用した。ヤコブにとって、本当に彼が誠実さを愛する人となるか否かを試す時が経過することになる。そしてヤコブは、持ち前の粘り強さをもって、敗者に甘んじ、静かに逆転の時が来るのを待ち、神の豊かな報いに与ることになる。すべての良きものは上から来るのである。
当時花嫁の父は、「花嫁料」を受け取るのが普通であった。花嫁は、財産や奴隷のように売り買いするものではないが、貴重な家族の構成員を失うことに対する代償として支払われるもので、普通、50シェケルの銀で支払われることが多かった。もちろん銀でなければならないことはなく、ヤコブのように労働で返すこともあった。そこで、ヤコブは7年ラバンに仕え、ラケルを妻として求めたが、ラバンは長女のレアを妻として与えた。長女を先に嫁がせるのがルールであるとしても、ヤコブは騙されたのである。ラバンに対する信頼は見事に裏切られ、ヤコブはラケルのためにさらに7年間ラバンに仕えなければならなかった。騙した者が騙される者となっていく。ヤコブは臍を噛む思いであったことだろう。しかしながら、全ての人に、ラバンのような人が必要とされているのは言うまでもない。そしてこの物語は、最終的な決定が、ヤコブでもラバンでもなく、目に見えない神にあることを明らかにしている。正しいことをなさる神がおられるのだ。必要な報いと裁きを行ない、必ず帳尻を合わせられる神がいる。そのような神がおられることを覚え、恐れなくてはならないし、悪はどんな悪でも避けなくてはならないことを教えられる。だから、人を利用しようとしてはならないし、人を利用する者に出会い、その足かせを逃れることができないようなことがあるならば、全ての決定を握る神の助けが必ずあることを期待してよい。たとえそれによって損失を受けることがあっても、その損失を取り返そうと焦ったり、争ったりする必要もない。事実、争いに解決はない。むしろ、神の恵みは豊かであることを知るべきだろう。私たちの思いを遥かに超えた恵み豊かな神に全てを委ね、平安の内に歩むことだ。神は、失った時も、機会も、ものをもすべて償ってくださる。それによって、試練の時が実りあるものとなるのである。
そういう意味では、夫に愛されないレアもまた、神の愛のまなざしの中に置かれていたことを覚えなくてはならない。ヤコブはラケルを愛した。ラバンの策略によって押し付けられた妻であるとすればなおさら、ヤコブにレアに対する愛情が湧くのは難しい相談であったことだろう。しかしそんなレアの人生とはなんであったのか。思うようにはならないのが人生であるとしても、人の悪意に振り回された、あまりにも理不尽な人生である。だがレアは、真っ先に子を産む祝福に与り、数ある子どもたちの中でも、祭司となるレビ族と王を排出するユダ族の母となった。人間ヤコブは、目に好ましいラケルを選んだが、神は、見た目も劣り、嫌われた女レアを選ばれたのである。
普通の物語として読むならば、人間が愛されたい、認められたいと人に願うならば、それがどんな悲劇を生むのか、この物語は示している。しかしそれ以上に、これを神の物語として読むならば、この物語は全く望みのない者を選んでくださる、神のご性質を示すものであることがわかる。神は、窮地に陥ったヤコブを、そして悪意に振り回されたレアを見過ごしにはされなかった。すべての帳尻を合わせ、すべての人に公平を帰する神がおられることを覚え、その神の前に正しく歩むことを、今日も求めていきたい。