ヤコブは、ラバンのもとで20年の時を過ごした。それは、決してヤコブの思うようなものではなかったことだろう。ヤコブは、幾度も報酬を変えられたのである(7節)。当初男子の相続者がいなかったラバンの娘たちは、当然彼女たちの相続分を持っていた。しかし、どうもそれは失われたようである(14節)。また、娘たちは言った。「彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶした」(15節)と。これは、ラバンがヤコブとかわした娘たちとの結婚の取り決めについて語っている。つまり、ヤコブが妻たちのために働いた14年間の労働は、妻たちのためではなく、ラバンのためのものとして搾取されていた、ということだ。ヤコブは、自分ではないラバンの財産が膨大に増加するのに貢献してきたにもかかわらず、低い報酬で使われるにいいだけ使われてきたのである。その事実は、娘たちにも気づかれて、娘たちの信頼を失わせる結果となった。ヤコブは、そうした主人の横暴に泣き寝入りするしかない状況に置かれていた。なんと悲しいことではないか。そしてヤコブは、神の時を待つ他なかった。ベテルで現れ「あなたを守り、捨てない」と語ってくださった神が、約束の機会を与えられるのをひたすら待ったのである。そして状況の変化とともに、神がヤコブに現れて語られた。
神の言葉を受けてヤコブは立ちあがった。しかし、ヤコブの行動は、成すべき正しいことを間違ってしたようでもある。というのも、ヤコブは、逃げるようにして出る必要はなかったからだ。かつて、エサウのもとを逃げ去った時と同じ過ちをヤコブは犯そうとしていた。祝福の神がともにおられ、神が語られ導かれたことであれば、堂々と立ち去るべきであった。しかし、これまでのラバンとの関係を考えれば、ヤコブは穏やかに自分が出て行けるとは思えなかったのだろう。つまり、ヤコブの問題は、神ではない、人を恐れたことである。難しい人間関係にあっては、「恐れ」ではなく「信仰」こそが大切である。だから、策略をめぐらすよりも、公明正大に交渉すべきことが大事なのである。神が全てのカギを握っておられるからだ。状況を考えれば、ラバンにすべてが有利であったことは言うまでもない。しかし、それでも神は、感情を害したラバンからヤコブを守るように導かれた。
さて、ラバンが気づいた時には、ヤコブはすでに三日の道のりを進んでいた。しかしラバンは、ヤコブを追って、七日目に追いついたとある。問題は後回しにはできるだろうが、避けて通ることはできない。必ず向かい合わせられる。ラバンは、ヤコブが別れに際して非常識であることを責めた。そしてヤコブが逃げた動機については、「あなたの父の家が本当に恋しくなって」(30節)と皮肉を込めている。ラバンは夢に現れたヤコブの神が「事の善悪を論じないように気をつけよ」と語ったことに自らを抑制せざるを得なかったのである。だが、ヤコブは盗まれたティラフィムの件のゆえに、ラバンをとがめて、20年間の待遇の問題を持ち出している。事の善悪を論ずるようにけしかけたとも言えるかもしれない。そんな状況でラバンがあくまでも神に告げられたとおりに、すべてが自分の所有であることを宣言しかけつつも、神の名において、この事態を収拾しようとしていることが興味深い。ラバンはヤコブの挑発に乗ることはなかった。むしろ、主のことばに従って、敵意をもって、ヤコブを追うことはない、と契約を交わしている。しかしこの契約の提案は、まさに神がラバンに促したことであり、神の憐れみによる措置であったというべきであろう。だからラバンは変わらないままであれ、ヤコブは、先のエサウの時のように「感情を害した兄弟」をそのまま残して立ち去ることはなかった。神が守りとなり、神の恵みの中で、成長させられていくヤコブがあった。
こうして見ていくと、すべてヤコブの本当の尻拭いをしているのは神であることを思わされる。ヤコブは愚かさを繰り返している。それは、決してヤコブが単純に愚かだ、というのではなく、不本意な形で愚かにならざるを得なかった部分もある。そんなヤコブが刈らねばならないものを、神が代わって刈ってくださり、物事を先に進めているところがある。神は、人間に100%人生の責任を取らせるということはない、ということだろう。むしろ人間が負いきれない部分を理解し、それなりに働いてくださる、と理解すべきである。
だから、私たちは、実際の所多くの失敗をしながら、多くの問題を引き起こしながら、何とか守られて生き延びていることがある。それは、背後に、恵み深い、神が働いてくださっているからである。神は人の思いに働かれるお方である。人間的に考えたら恐れるしかない状況で、神が確かに働いてくださる、そしてみ業をなし、私たちの人生を守り導いてくださる。神を信頼し、人を恐れず正しきことをなさせていただこう