創世記33章 エサウとの和解
1. 兄エサウとの再会(33:1-11)
ヤコブは、「神の祝福のことば」を握って、先頭に立ってエサウと会う腹を決めました。しかし、現実的なことを言えば、彼にとってエサウに会うことは、やはり神を信じていても、難しいことであったのです。贈り物を先に進ませ、家族をそのあと西、さらに近づくエサウに会うまで七回も地に伏しておじぎをする。当時、この行為は、服従の意を示す行為とされたものですが、ヤコブは、エサウとの間に角が立たないように、心を尽くしたのです。ところがエサウの態度は、ヤコブの予想を全く超えたもので、実の弟の帰郷を心から歓迎してくれたのです(4節)。「神の祝福のことば」は真実なのです。神が、ヤコブのために働いてくださっていたのです。ヤコブはエサウに贈り物を与え、「私は兄上のお顔を見て、神の御顔を見ているようです」(10節)と語っています。ヤコブはへつらったのでしょうか?そうではないでしょう。むしろ思いもしなかった兄エサウの変化、完全な和解に、ペヌエルで「顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という神の臨在の経験、兄エサウの背後にあわれみ深い神を見る経験をしていたのではないでしょうか。兄エサウはヤコブの贈り物を受け(11節)、和解は成立したのです。
神は、私たちの思いを超えた結果をもたらすお方です。主は、私たちが眠っている間にすべてを備え、導かれるお方です。神のことばは安易な気休めではありません。人生の究極的な問題解決手段として、神の業に期待することを学ばなくてはならないでしょう。
エサウはヤコブに親切でした。エサウは、善意のしるしとして、ヤコブの旅を助けようと申し出ました。しかし、ヤコブは自分の群れがエサウと共に旅をするにはあまりにも弱いと、一緒に行動することを辞退しました。それは、兄との関係に慎重を期してのことであったのかもしれません。彼は、ラバンのもとで幾度も気まぐれに報酬を変えられ、悩み苦労してきていました。もしや兄も、気まぐれに心を変えるかもしれない、彼は用心したのかもしれません。あるいは、長旅で疲れていたヤコブの群れが、エサウの群れのペースに合わせるのは無理である、と単純に言葉通りの判断が働いただけなのかもしれません。いずれであるのか、文字通りの意味で理解したいところです。
2.迷うヤコブ(33 :12-29)
ただヤコブは、兄のもとセイルへ行くと言いながら、南に下っていく兄の後を追わなかったのです(33:16)。むしろ、彼は西側のスコテへ移動しヨルダン川を渡り、さらに西に進んでシェケムに宿営しました。彼は、明らかにエサウから遠ざかっていくのです。なぜそんなことをしたのだろうか、口で言ったこととやっていることは別です。実に不思議です。それは、エサウの後を追って下っていき同じ土地に住めば、いずれ二人の間に衝突が生じると、祖父や父たちの例を思い出していたのか(13:8、26:16)、あるいは、かつて神が現れてくださった思い出の場所ベテルにまず向かおうとしたのか。さらには、父イサクが住むヘブロンへ行くのが先と考えたのか色々と推測するまでです(35:27)。ただ、それは信仰的な迷いの結果であったのかもしれないと私は思うところがあります。つまり、祖父のアブラハム同様、約束の地カナンへ足を踏み入れたものの、どこに定住すべきか、神が定めた場所に辿り着こうとする、神のみこころを探る迷いの時を過ごしていた、というわけです。
そこでヤコブは、ハモルの子らから土地を買いました。そして、まず祭壇を築き、「エル・エロへ・イスラエル」と名付けました。それは、「神はイスラエルの神」であるという意味です。つまり、神は私の神である、神のみこころを第一として生きていこうというヤコブの決意のほどを示すものでしょう。ただそこが神の定める場所ではなかったことは、次の34章の出来事で、彼が移動を余儀なくされたことで明らかです。神のみこころはわかるようでわからないものがあります。そして、ヤコブは、神の約束の地が、シェケムでもヘブロンでも、またエルサレムでもなく、パレスチナ全土であったと、彼は死ぬ前に気づいたのであろうかとすら思います。神のご計画の偉大さ、私たちに与えられる祝福の豊かさに気づかぬ人間的な限界があります。神のご計画は常に、私たちの思いを超えたものである、そこをわきまえつつ、主の御心に生きるように、人生進ませていただきたいものです。
<クイズコーナー>
最初に、昨日のクイズです。「マハナイムは様々な意味で、聖書では重要な都市ですが、ここを首都と定めて王に即位した人物は誰でしょうか?答えは、サウルの子イシュ・ボシェテです。彼は父の死後,ペリシテ勢力の強いヨルダン川西側を捨て、東側にあるマハナイムを首都にして王に即位しました(2サム2:8)。では、今日の聖書クイズを一つ。聖書には、ヤコブが家族と共に宿営したスコテと、もう一つモーセがイスラエルの民を連れて宿営したスコテがあります。後者のスコテは、どの地にあったでしょうか?答えはまた明日。では、今日もよき一日となるように祈ります。
<天草さんのフォローアップ>
パスターまことの聖書通読一日一章をフォローし、さらに掘り下げにチャレンジしている、天草さんのサイトはこちら⇒「天草幸四郎」http://progress-to.jugem.jp/
私の願いは、聖書が国民の愛読書になることです!