創世記の著者はヤコブの歴史としてヨセフの物語を語っていく。ヤコブは年老いたので、神の関心も次の世代に移っていくというのではない。神は、ヤコブの最期まで、ヤコブの一生を通してご自分の計画を明らかにし、語ろうとされる。
さてヤコブはヨセフを偏愛した。「そでつきの長服」は、七十人訳やヨナタンのタルグムによれば「多彩の上衣」、足首にまで達する長衣であった。これは長子、つまり一族の首領に着せられたものである。父ヤコブの振る舞いに兄弟たちが妬心したのも無理はない。そして事態は、ヨセフの夢によって最悪になった。「そでつきの長服」を身にまとって夢を語るヨセフのことばは、敏感な兄弟たちの心をますます刺激したのである。彼らの心には、感情的なものが先に立って、ヨセフと穏やかに話すことができなかった。
ヨセフの見た夢は特別な解釈を要しない。そのままである。ヤコブはヨセフをいさめてはいるが「このことを心に留めていた」のは、自分も同じ夢による神のお取り扱いを受けたためであり、神の啓示と導きを、そこに覚えたからなのだろう。しかし、兄弟たちのヨセフに対する憤りや憎しみは、いつしか殺意へと高じていた。カインの怒りがアベルをあやめたように、兄弟たちの怒りもまた爆発しようとしていた。
ある日、ヨセフは父に遣わされて兄たちを追いかけてシェケムからドタンへと出かけた。現在テル・ドタンは、約一日の道のりで、今も最良の牧草地が広がっている。ヨセフを見つけた兄弟は、「あの夢見る者」と呼び、憎しみを燃やした。「あれの夢がどうなるかを見よう」というのは、ヨセフの夢の実現を阻もうとする悪意に満ちたあざけりである。彼らはヨセフを荒野の穴に投げ込んだ。しかしひでりがあっても泉が多いこの地で、水がなかったのは、神の守りである。ドタンはエリシャの若者の目が開かれて、彼らが神の戦車に取り囲まれているのを見たところでもある(2列王6:13-17)。助けなきと思うところに、神の配慮がある。
続いて神はユダに働き、ヨセフがイシュマエル人、すなわちミデヤン人(36節)とも呼ばれる商人の一行の手に引き渡され、ヨセフをパロの廷臣で侍従長ポティファルに売られるようにしてくださった。本当に人を守り助けられるのは神ご自身である。
それにしても、兄弟の憎しみによって殺されそうになり、さらに奴隷として売られる経験は悲惨である。兄弟たちは後に、「彼(ヨセフ)の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった」(42:21)と告白しているが、そうした事情は、ヨセフの心に癒し難い傷を負わせたことに間違いはない。
だからヨセフの物語りは、イエスの物語りに重ねられる。ヨセフもイエスも父に偏愛されていた。そしてヨセフもイエスも、兄弟には嫌われたのである。また、ヨセフもイエスもユダに売られ、苦しめられた。しかし、ヨセフもイエスも、やがて王座の栄冠に与ることになる。神は、神の子としての栄冠へと至らせるために、私たちをヨセフやイエスと同じような苦しみにあわせなさることがある。しかし、神のみことばに支えられながら、主の栄冠に与るのである。
さらにヨセフの物語は現代の崩壊家庭を思わせるものがある。家族に起こっている事柄をまったく知らずにいる無関心な親の問題を思わせてくれる。ヤコブはヨセフを偏愛し、家族のピンチを見過ごしてしまっている。人間として未熟で不完全な父のもと、限りなく人間悪に落ち込む家族。だが幸いなことに、神はこのような家族を見捨てず、寄り添い、弱き者を救い出される。ただこの物語は、拒絶されたヨセフを救いだすだけのものではない。すでにアブラハムに対して、選ばれた神の民が、外国の支配のもとに一時置かれることが明らかにされていた(15:13-16)。だから、これらの一連の出来事は、あらかじめ神が理解し、そのようになることを許しておられたことである。つまり、ヤコブの家族が不信仰と妬みの故にヨセフを拒絶したのは悲しい出来事ではあったが、それはただ、人間の横暴のなすままの出来事であったわけではなく、神の深いみこころの中で起こるべくして起こった出来事であった。だからこのような状況の中にありながらも、神の主権が失われていたわけではなく、神のご計画そのものが、まさに人間の日常の営みを通して進められていた。人は不幸を神の御心として受け止めることができない。悪と神は共存できない、と考える。しかし、悪と神は共存するのであるし、悪の横行が、必ずしも神の主権を否定することはない。時が至れば、やがて神の主権の内にあって、悪が神にあって良きに用いられたことを悟る時が来るのである(創世記50:20)。今日も神の業に信頼しつつ、歩ませていただくこととしよう。